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茨城のヒト・コト・バ PEOPLE, THINGS, SPOTS OF IBARAKI
大子森林物産株式会社 代表取締役
綿引賢治さん
「余計なものは入れない」ドイツ式製法を貫く大子ブルワリー
「余計なものは入れない。大手にはない手づくりで丁寧なビールを造る。私は、これまでのドイツ式製法を変えるつもりはありません」
6月上旬の晴れた日の昼下がり。鳥や虫の鳴き声とともに爽やかな風が流れ、新緑が揺れる。栃木県との県境まで約2km。大子町上金沢にある地ビール製造・販売とレストランを展開する「大子ブルワリー」。
1997(平成9)年の酒税法改正を受け、茨城県内でも早くから地ビールの製造に着手した地ビール製造・販売事業者の一つだ。
同年の創業から25年。1990年代の第1次ビールブームから始まり、第2次ビールブーム、ここ数年の第3次ビールブーム。そして、東日本大震災、新型コロナ……時代の大きなうねりの中、数々の苦難を乗り越え、今なお、伝統製法を貫く「大子ブルワリー」を運営する大子森林物産株式会社 2代目で代表取締役の綿引賢治さんに話を聞いた。
大子でしか飲めない、大子の地ビール
ビールの原料は、主に水、麦芽(モルト)、ホップ、酵母の4つ。最近のクラフトビールブームでは、この基本の4つにフルーツなどを加え、個性を出したり、これらの原料にあらゆる醸造の工夫を施したりしているものもある。
「大子ブルワリー」では、25年前の創業当時から変わらずに本場ドイツから輸入した麦芽と八溝山系の豊かな湧き水を使い、本格派の地ビールを造っている。
キャッチフレーズは「大子でしか飲めない、大子の地ビール」。醸造所に併設するレストランの客席からは、ガラス越しにビールを醸造するタンクが見える。
「醸造中には、レストランまで麦芽の香りが広がるんですよ」
「飲めない人からしたら辛い空間かもしれませんね」
賢治さんが茶目っ気たっぷりにほほ笑む。
醸造する麦の甘い香りが広がる中で、窓の外に広がる景色とできたての自慢のビール、地元食材を使った料理やソーセージが味わえるなんて、ビール好きにはたまらない至高の空間だろう。製造直売方式の地ビールレストランだからこその魅力であり、強みだ。
「お前にはこの仕事を任せる」父の一言で大きく進路を変えた20代
大子ブルワリーは、賢治さんの父・重男さんが創業した。仕事でヨーロッパに行った父が、ドイツビールに衝撃を受けたのだという。
「ドイツビールは日本人に合うんじゃないか」
酒税法改正が背中を押した。幸い土地は余っていて、帰国後、すぐに醸造所の建設に着手した。そんな父の動きなどつゆ知らず、賢治さんは就職した都内の建設会社で初めて現場監督に抜てきされ現場に足を踏み入れるところだった。
「東京から帰ってくるつもりはなかったんですけどねぇ」
おかしいな、と言わんばかりに首を傾げる賢治さん。そう言いつつ、眼差しは柔らかい。連日の母からの着信。
「お父さんが戻って来なさい、って」
電話口の様子で、どうやら母も父に言われて電話をかけてきているらしいことがわかった。入社から2年弱。ここまで現場で育ててくれた上司の顔が浮かんだ。
「イヤイヤ、ないでしょ」
にべもなく言ってのける賢治さんにも負けず、母からの連日の着信は1カ月に及んだ。
「親が帰って来いっていうんですけど、現場監督が抜けるなんてないですよね……」
上司の顔色を伺いつつ尋ねてはみたものの、すでに気持ちは故郷にあった。
「今考えてみれば、お盆や正月に帰った時に、この場所の工事が始まってたんですよ。兄が継いだ会社の新工場でも作ってるのかな、くらいに思っていた骨組みはまさかの醸造所兼レストランだったんです」
時すでに遅し。自分の意見など入る余地もなく、父の思うように造られた醸造所。木造建てで、レストランを併設した約200坪の醸造所がやたらと大きく見えた。
「お前にはこの仕事任せるから」
1997年2月、飲食業にも酒造業にも縁のなかった25歳の賢治さんの進路は大きく変わった。
「名ばかり」店長と第1次地ビールブームの終焉
はじめに任されたのは、レストランの店長と在庫管理だった。自分以外のホールスタッフは飲食店経験者がほとんどで、賢治さんは右も左も分からないいわゆる「名ばかり」店長。スタッフのまとめ役が年下の自分では……と後ろめたさを感じていた。
父のやり方に不満をもつ時もあったが、時代は1990年代の第1次ブーム。反発する余裕などなく、目の前の仕事に向き合っては気づけば1日が過ぎている、そんな状態だった。
「厨房にも立つ、接客もする。レストラン閉店後、店内で眠ってしまい、翌朝なってしまったことが何度もありました」
戸惑いの連続だった日々。酒店で賞味期限切れの商品が販売され、クレームが寄せられた時もあった。混雑に乗じた無銭飲食のトラブルも持ち前のリーダー気質でなんとか乗り切った。
「とにかく毎日がむしゃら。そんな感じでした」
しかし、そんな日々は長くは続かなかった。
地ビールが観光地を中心に広がるも、他業種の参入による品質の低下や景気低迷、大手アルコールメーカーによる「発泡酒」の発売により、その勢いは失速。消費者は、観光地でしか買えなかった「地ビール」から、価格志向にシフトした。
「初めは何もしなくてもお客さんが来ていたんです。入店を断ることもあったくらい。でも、ここ10年は、ビールや料理、この雰囲気を楽しんでゆっくりして帰るお客さんが中心になりましたね」
レジでは、観光客と思しき10人近くの男女が思い思いにビールを手にしている。
言い訳を探していた過去と第2次ビールブーム
「自分はビール醸造がしたかったわけでも、帰ってくるつもりもなかったから……好きでビールづくりをする人のエネルギーには敵わない、そういう言い訳をずっと探していたように思います」
賢治さんが遠い目をして、振り返る。窓の向こうで、創業当時に植えられた木の葉が揺れる。2000年代、第2次クラフトビールブームの波が到来。
国内のブルワリーが世界的な品評会で評価されるといった躍進をはじめ、「地ビール」から「クラフトビール」というリブランディングが大きく影響した。「大子ブルワリー」も例に漏れず、2005(平成17)年には、JBA(Japan Brewers Association)全国地ビール醸造者協議会の視察醸造所に選ばれたほか、FOODEX JAPAN 2019「ご当地ドリンクグランプリ」アルコールドリンク部門でピルスナーが銅賞を受賞するなど評価を受けた。
愚直に造り続けたビールは、各地の食材を探すツアーで立ち寄った都内のレストランやバーの経営者の目に止まった。
「クセがなく麦100%のビールは国内でもなかなかない。ぜひ、うちで取り扱いたい」
販路も大きく広がった。
2011年、東日本大震災後で施設の被害はあったが、世の中の「前に進んでいこうという機運」に勇気づけられ地道なビール造りを進めた結果、ブルワリー立ち上げにかかった借金も完済。
そして、大子ブルワリーの経営による経験値や都内レストランやバーの経営者たちとのディスカッションで自信もついた。
「この頃からでしょうか。『大子ブルワリーをなんとか続けたい』という思いに変わっていました」
社長就任へ
2011年、賢治さんは代表取締役に就任。同時に、ビール醸造技術も学び始めた。大子ブルワリーで製造しているビールは、25年前の創業当時から醸造の指導にあたってきたドイツ人のブルーマスターと、同じく当時から醸造を担当してきた増子浩美さんが、時間をかけて品質を追求してきたもの。そのバトンを「新米」ブルーマスターとして賢治さんが受け取ったのである。
「今でも、増子さんからそのレシピや蒸留のタイミング、配合などを伝授してもらっている最中です」
2010年代後半以降、第3次ブーム。全国的なブームにより、クラフトビール醸造所は増え続け、茨城県内でも、ここ数年でぞくぞくとクラフトビール醸造所が誕生している。
これまで「ビール」は麦芽使用率を67%以上とし、水・ホップ・麦芽のほか、米やとうもろこし等の限られた副原料しか用いることができなかった。2018年の酒税法改正で、麦芽使用率は50%以上に引き下げられ、副原料についても、各種果実などの香味料が認められるようになり、これまで「発泡酒」と表記していた多くのクラフトビールを、「ビール」と表記できるようになった。
これにより、2022年5月時点で、発泡酒で免許を取得している所を含めれば全国に500~600程度の「ビール醸造所」があるとみられる。脅威となりがちな法改正だが、実は賢治さんが貫いてきた麦100%だからこそ、強みとなり得ることができた。
「副産物を入れない、余計なものは入れないドイツ式製法のビール」
麦を使う比率を減らすほど、味わいが薄くなってしまう発泡酒との大きな差がここにある。
大子ブルワリーの手がけるビールは麦100%。そもそも常温で飲んでいたドイツのビールと同じ製法のため、多少温度が上がってきても、しっかりとした味も変わらず、かえって香りが立つのだという。
「だからうちのビールは最後まで飽きずにちゃんとおいしく飲めるんです」
誇らしげに語る賢治さん。静かに、だが、確かに伝統が受け継がれているのだ。
新たな取り組みからの広がりも
コロナ禍に町内の観光施設を運営する経営者からの誘いで、大子の温泉をイメージしたキャラクターグッズを取り扱うことにした。
「はじめはこういったアニメというかマンガというか、サブカルチャーと分類されるジャンルで人が来るなんて思っていなかったんです」
キャラクターが「ビール好き」という設定であることから、
「始めてみたらコロナ禍でも、このキャラクラーやシリーズのファンの方が足を運んでくれるんです。日本の誇る文化のパワーを感じましたね」
今では、グッズをきっかけに大子ブルワリーを知ったファンが全国各地から訪れている。
「小さなことかもしれませんが、世界が広がりました。来てくれるファンの方がみんないい人ばかりなんです」
ほかのキャラクターのグッズを飾ってほしいと持参する人、「こんなグッズがあったらいいな」と提案してくれる人……一人ひとりの笑顔が記憶に残っているという。これまでとは違ったアプローチでの出合いを語る賢治さんの声も弾む。
「大子ブルワリーさんは、そのままでいいんだよ」
社長就任後、数々の采配を下してきたが、決して、揺らがない訳ではない。
ビールの製造も、レストランも最低限のスタッフで回している。適切な温度管理やマシンの状態による品質管理のために、社長である賢治さん自ら配達に向かう。接客にも、厨房にも立ち、常に客の機微に気を回す。誘いがあっても、なかなかイベント出店もできていないのが実状だ。
そんなコロナ禍前、2018年の夏。イベントの初日、若者が列をなすブルワリーの近くで、大子ブルワリーの店舗前は行列ができるほどではなかった。
「余計なものは入れない」
そう決めて造り続けているビール。
「やっぱり若い子には地味なんですかね」
ポロッと出た言葉にある客が言った。
「何言ってるの。大子ブルワリーさんは、そのままでいいんだよ」
思い返せば、創業当時から、東京から常磐線、水郡線を乗り継ぎ、約3時間をかけて通ってくれる2人組の常連客がいる。高齢にもかかわらず、いつもベロベロになるまで飲んで、食べては「やっぱりここじゃないと」と笑う。
小6になる息子が小学校の参観日に「お父さんと同じように、大子ブルワリーで仕事したい」と、作文を読み上げた。言葉は、賢治さんの力となった。
「今、責任を持って『ドイツ式製法』を貫こう、と言えるのは、こうして変わらない味を続けていれば、ここまで支えてくれたお客さんや地域の人たち、スタッフや家族が、きっと認めてくれると信じているからです」
キッパリと言い切る賢治さんの言葉に迷いはなかった。
「次の世代に、つないでいきたい」
貫く強さは、ひと筋の光に
「伝統を守り続ける」という軸をもち、あえて「変えない」選択を貫く「大子ブルワリー」。その挑戦は、日々あふれる情報に自分を見失いそうになる時、ひと筋の光となるのではないだろうか。