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村田友哉さん

PEOPLE

イタリアンガレージ・シェフ

村田友哉さん

何処にいようと、チャレンジは止められない。イタリアンシェフの挑戦。

茨城県の南東部に位置する潮来市。あやめまつりの季節には首都圏からの観光客で賑わう、水郷潮来あやめ園のすぐそばに「イタリアンガレージ」は店を構える。シェフを務める村田友哉(むらた・ともや)さんは、イタリアでの修行経験やナポリピッツァの全国大会入賞歴を持つイタリアンシェフで、全国、東京の第一線で活躍してきた経歴の持ち主。地方への移住後も勢いを緩めることなく自分のベストに挑み続けている。そんな村田さんに地方でのチャレンジについてのお話を聞かせていただいた。

理想を求めて、あっという間に時間が経った

小麦粉と水、塩を酵母でゆっくりと発酵させた生地を手で延ばすと、トマトやチーズの具を載せて、厨房に設えた薪窯で一気に焼き上げる。「イタリアンガレージ」のシェフ・村田さんの焼くナポリピッツァは、ふちはふっくらと柔らかで、ソースの下の生地は軽やかな仕上がり。香ばしい焦げ目や食感のコントラストも鮮やかだ。

店には、全国大会入賞の実力を持つ村田さんのピッツァを味わおうと、近隣市町村や県外からも足を運ぶ人が少なくない。また、隣接する鹿嶋市は鹿島アントラーズのホームスタジアムを有する街。サポーターや選手たちにもこのピッツァのファンは多いのだという。

ピザを焼く窯は日本の職人による特注の薪窯。直接ピッツァを滑り込ませ、高温で一気に焼き上げる。村田さんが焼くピッツァは、ランチタイムだけでも約70枚。地方では記録的な数字で、小麦の使用量が急に増えたことにより、小麦粉の輸入元からメーカーに問い合わせがきたほどだ。


「まだまだ試行錯誤の途中。僕の理想のピッツァにどうやったら近づけるか、お客さんにとっての最適な状態はどんなものなのか、それを考えているうちにあっという間に5年が経ちました」

ピッツァの話題が上がったとき、村田さんは軽快な笑顔を見せた。

ナポリピッツァは、伝統的な材料で作られた生地を高温の薪窯で焼くナポリ発祥のピッツァ。シンプルな材料と手法だけに、仕上がりには職人の技量や経験が問われる。

2017年の開店から5年、試行錯誤はほぼ毎日。村田さんは努力を惜しまない。生地の仕上がりに関わる要素だけでも、素材や配合、発酵の温度に湿度、薪窯の管理と果てはなく、さらには、ランチタイムとディナータイムではベストな状態に仕上げる条件が違うのだそう。

毎日試しつづけてなお理想に届かない、という言葉に、村田さんのプロとしての姿勢が表れている。

シンプルな材料だが、生地の厚みや食感がアクセントとなって、飽きずに楽しめるナポリピッツァ。本場ではシェアせず1人1枚ずつ食べる食事なのだとか。


手に入れた経験がいつでも自分の助けになる

村田さんの料理人としての原点は山梨県で過ごした高校生時代に遡る。水泳、サッカー、陸上などスポーツに打ち込む日々の中、毎日通学前と放課後に地元のパン屋を手伝っていたそうだ。理由は「ただただ楽しかったから」。その後、進学した東京の調理師学校でパンもコース料理の一要素だと知ると、「料理」という世界の広がりに惹かれ、さらにその奥深くへと潜っていった。

卒業後は、フレンチ店やイタリアン店での勤務を経験した後、イタリアに渡る。4つ星ホテル内のレストランで経験を積んで帰国し、東京でケータリングシェフとして働いた。ナポリピッツァと出会ったのは、25歳のころ。当時まだ珍しかったナポリピッツァの職人がいる店を知り転職を決めた。

「イタリア人シェフにとって『ピッツァ職人』と言うのは別格の存在のようで、最初は仕込みもさせて貰えないんです。パン屋や料理人としての経験もあるので自信があったのですが、いざ焼かせてもらえる機会があってもうまくいかない。ナポリピッツァは、生地の作り方や伸ばし方、窯の温度管理など全てが未経験のものでした」

それでも、働きぶりで徐々に信頼を勝ち得た村田さんは、職人が不在時の窯の担当を経て、新しい店舗を任せられるまでになった。

このときの気づきを、村田さんは回想する。

「それまでの様々な現場での経験が、全て生きていると感じる瞬間がありました。東京でケータリングシェフをしていたとき、毎日違う環境、違うキッチンで調理するという特殊な経験には、本当に鍛えられたんです。臨機応変に対応する力が身についていたのでしょうね。そこが時間ごとに変化し続けるレストランの厨房で評価されたのだと考えています」

華々しい経歴のひとつ一つには、影での並ならぬ努力と奮闘があったのは間違いない。そしてその一瞬一瞬で、今までに得た経験を少しも無駄にせず、次のステップへ進もうとする村田さんの貪欲な姿勢が窺い知れる。

発酵させた生地は、手で包み込むようにして丸く分割するのが伝統的なスタイル。具材を乗せる前に平たく成型する際も手を使って延ばす。


そして、高い集中力を発揮しながら現場に打ち込んでいた瞬間は多かった。たとえば、イタリアに渡る前に経験した仕事のエピソードに、村田さんの姿勢をよく表したものがある。

村田さんは、2005年日本国際博覧会(愛・地球博)内のレストランに勤める機会を得た。イタリア人シェフのもと厨房ではイタリア語の指示が飛び交う。はじめは「自分がなぜ怒られているのか」さえ分からない。まだ料理も満足に出来ず、言葉も分からないというストレスのなか、それでも村田さんは感覚を研ぎ澄まして相手を理解しようとしたという。

一言で表せば「相手の気持ちを想像した」ということだが、新卒後1年の間に得た経験から、接客や先輩スタッフ達の仕事ぶり、指示を思い出して補いながら、文字通り言語も技術もたたきこんだそうだ。結果はなんと、2ヶ月経つころにはイタリア語で冗談を言えるほどになり、シェフたちの反応が明らかに変わったのを感じたらしい。

実は人の顔と名前を覚えるのは不得手。名刺もほとんど配らないのだそう。その代わり、自ら積極的にコミュニケーションを取り、相手との関係を築いてきた。


想定外のチャレンジが潮来ではじまる

こうして国内外、東京の第一線で活躍した村田さんが次に選んだのは茨城県。結婚後、妻の出産を前にして、一度東京を離れようと妻の実家がある潮来市への移住を決めた。休む暇なく働き続けた20代を経て、一度休みたいという気持ちもあったそうだ。

引越し後は、しばらく近隣のレストランで働いたが、義父の呼びかけに応える形で潮来駅のそばに家族の店を持つことになる。

「最初は反対したんですよ。まだここで店を持つイメージが湧かないって」

村田さんは振り返る。

東京では様々なオーナーのもと、経営の難しさを生で体感してきた。加えて、まだ誰かの下で技術を学びたいという気持ちもあったという。ただ、当時の日本では、ナポリピッツァを提供するイタリアンレストランは珍しく、有名シェフたちの店は軒並みピッツァ専門店の業態だった。

「僕の料理人としての原点は、パンがコースを構成する要素だと知ったこと。ピッツァの専門店ではなく、あくまでイタリアンレストランのメニューとしてナポリピッツァに取り組み、お客さんに提供したい。そのためには自分の店を持つべきかもしれないと思っていた時期でもありました」

店があるのは、潮来駅の改札を出てすぐの高架下。店舗は、義父が以前飲食店を開いていた場所だったそう。


地域に求められる店をつくって経験を積み上げたい

村田さんには、立地に関係なく良い料理とサービスを提供する店をたくさん見てきた自負がある。東京だから成功するわけでも、地方だから不利なわけでもない。

「料理人である以上、お客さんが来てくれる店を持ちたい。自分の理想を押し付けるのではなく、地域に求められる店を作ろう」

オープン前には、店の立地や街の中での人の流れ、さらにはこの先3年、5年、10年とどう街が変化するかを見据えて、徹底的に戦略を考えた。

さらに、重要視したのは「どれだけ経験を積めるか」。自らが過去の自分の経験に助けられたことが何度もあるからだ。村田さんの口からは繰り返し「経験」こそ、自分への投資だという言葉が出てくる。

「尊敬する先人たちはそれだけ日々経験値を得ている人だと思うんです。自分もそれに追いつき、業界で成果をあげたい。ランチメニューの価格設定ひとつをとっても、どうしたらより経験を積めるか、より多くのピッツァを焼けるかを考え決めています」

お客さんの多くは市内や近隣市町村からやってくるらしい。「らしい」というのは村田さん自身確かめたことがないから。毎回世間話をする関係の常連客でさえ名前や居住地を知らないことも珍しくないという。「子どもだろうと、お年寄りだろうと、有名サッカー選手でも、ここでの関係はフラットだし、僕は接客を変えません」と村田さん。


今を面白がる気持ちが最良のパフォーマンスを生む

そうして地域で愛される人気店を作り上げた村田さん。しかし第一線で活躍してきた村田さんにとっては、地方の環境に少なからずもどかしさを感じていたらしい。だが、そんな話題でさえ村田さんはどこか楽しそうだ。

「食材の仕入れなど、自分で行わなければならない業務も増えましたが、その分目利きの力は養われた気がしています。こちらに来てから新しい仕入れルートの発見もありました。また土地柄、鹿島アントラーズの選手や関係者が僕の料理を美味しいと広めてくれたのはありがたい事でしたね」

今できること、そして今自分がいる状況を、心から面白がっているのが伝わってくる。

「『レストランの仕事』というのは、決まったタイムテーブルや筋書きがあるものではないんです。常に1〜2時間後、数日後を予想しながら動く必要があり、この世界に入って20年の経験がある今でも、たまに愕然とするような状況に陥ります。ただ、いつも今の自分が出来るベストは何かを考えるんです。プロの仕事とは、限られた条件でもベストパフォーマンスを発揮する力だと思っています」

村田さんの働き方は、厨房の中でも外でも清々しいほどにまっすぐ前に向かっているのだ。

鹿島アントラーズの外国籍選手の中には、村田さんにイタリア語が通じることに安心感を覚えた選手も多い。帰国後も連絡をくれる選手もいるという。海外での生活で言葉が通じる場所が身近にあるのは心強いはずだ。


未来ある子どもたちに、大人が働く姿を見せたかった

最近、そんな村田さんには「仕事」について、若い世代に伝える機会があったのだそう。潮来市内の高校でフードデザインを学ぶ生徒たちの実習に講師として参加したときのことだ。

食材の選択から調理、盛り付けまで生徒たちが行う実習を組み立て、売価設定も生徒と考えた。生徒たちは、盛り付けの量や販売個数、価格を割り出し、本番では、手際やオペレーションすら利益に直結するのだと気づく。村田さん曰く実習はやや「スパルタ」だったというが、生徒たちにとって貴重な機会となったはずだ。

「子どもたちには、大人が働く姿を見てもらいたかったんです。僕らプロだって、いつもゴールが見えて働いている訳ではない。将来、飲食業界でない仕事をするにしても、その時々で自分のベストを選べるようになってほしい、それが願いです」

実習では、自らが料理の道に進むと決めてから「僕は今までこうやってきた」と今に至るまでの道程を語ったのだそうだ。

「僕が高校時代パン屋で働いたり、就職してから自分で何度も選択して色々な現場で経験を積んだように、自分で必要だと考えて行動するからこそ学べるものがある。それこそが自分への投資で、アプローチの方法は沢山あるから、今、自由に夢を追いなさいって」

プライベートではお父さんの顔を持つ。息子達に見せる表情はとてもやわらかだ。


「自分スタイル」へ、挑戦は尽きない

潮来への移住、そして店のオープンから5年が過ぎた。店づくりも料理人としての修練もまだまだステップの途中だと話す村田さんに、今後の目標を問うと、今後は年齢や試合のタイミングに応じた食事サポートでも関わってゆきたいと夢を語ってくれた。共にストイックな姿勢で仕事に臨む者同士らしい答えだ。

「料理人として、またスポーツ経験者として、子供を持つ父としても取り組みたいことです。現役選手や、さらに若い世代の身体作りを食事でサポートできたら良いですね」

そして、続けて語る。

「もちろん、ピッツァの世界でもさらに良い実績を残すための努力は惜しまないつもりです。自分の行動の結果、地域に人を呼べたら嬉しいですし、さらにいえば地域に競争が生まれて、エリア内での良い人の流れが起これば、それが一番幸せだと思っています」

村田さんはその後、いたずらっぽく笑ってみせた。

「本当は、誰かに嫌われたり、文句を言われるくらいの店になったほうが地域が面白くなるんじゃないかなと思ってるんです。そのくらいに『自分のスタイル』を極めていったら、お店はどうなっていくのか、それもすごく興味があるし楽しみです」

PROFILE

PEOPLE

イタリアンガレージ 店長シェフ
山梨県出身。調理師学校卒業後、有名フレンチ店勤務を経てイタリアンの料理人へ転向。愛・地球博内のレストランで働いたのちイタリアに渡り、トリノオリンピックの報道陣向けホテルや4つ星ホテル内レストランでの勤務を経験。帰国後はケータリングシェフとして、イベント会場や個人宅をまわる。25歳のころ、本場ナポリピッツァに出会いイタリア人ピッツァ職人のもとで研鑽を積んだ。
結婚後、妻の出身地である潮来市へ移住。「イタリアンガレージ」で2017年よりシェフを務める。
日本で最も優秀なナポリピッツァ職人を決める大会「第3回ナポリピッツァ職人世界選手権日本大会(通称、カプートカップ。2015年開催)」では4位に入賞。

イタリアンガレージ  http://www.cafefishing.com/

INTERVIEWER

蓮田美純

1990年生まれ。茨城県出身。京都で歴史を学ぶ学生時代を過ごし、卒業後はそのまま関西で就職。その後茨城に戻り、2016年からは水戸市在住。趣味は食に関すること全般と暮らすこと、散歩。誰かの想いや暮らしを通して、新しいことを知るのが好きと気づいて、現在ライター修行中。

Photo:佐野匠(つくば市)