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川島拓さん

PEOPLE

田村きのこ園 二代目

川島拓さん

唯一無二の椎茸を100年先へ。第三者継承でつなぐ地域の宝。

研究を重ね生まれた産物、独自の栽培技術、経営ノウハウ。それらは長い時間をかけて築き上げてきた地域の宝とも言える。しかし跡を継ぐ人がいなければ、失われてしまうかもしれない。

笠間市で椎茸栽培をする「田村きのこ園」の二代目・川島拓(かわしま・ひらく)さんは、「この椎茸を未来に残したい」との想いで田村きのこ園を第三者継承。地域の魅力的な農業を未来につなごうと、先代から受け継いだものを大切にしつつ、自分らしくチャレンジを続けている。そんな川島さんに、農業の道を志してから継業に至るまでのストーリーや、第三者継承への考えを伺った。

茸匠が生んだ地域の宝

笠間市の山あいで、年間約8トンの椎茸を生産している田村きのこ園。ここでのみ作られている「福王しいたけ」は、手のひらサイズで肉厚、旨みが濃く、香りも楽しめると評判。都内や茨城県内のレストランで使用されたり、大切な人への贈りものとして珍重されたりしている。川島さんもこの椎茸に魅せられた一人。ファンから作り手となり、現在は二代目として唯一無二の椎茸を未来につないでいる。

田村きのこ園から見える風景(初夏)。草木の緑と空の青が深呼吸を誘う。ここ笠間市福原エリアは、豊富な湧水と、暑すぎず寒すぎずの気温が椎茸栽培に適しているそう。


田村きのこ園の椎茸は、菌床栽培でつくられる。ナラやクヌギのおがくずに米ぬか、ふすま(小麦の外皮)などを混ぜて圧縮した20㎝四方ほどのブロックに、椎茸の菌を植え付けて育成させていく栽培方法だ。先代・田村仁久郎さんが18歳のときに椎茸栽培を始めて50年近く、原木栽培を取り入れていたが、65歳のときに菌床栽培へと切り替えた。1本40キロほどにもなる原木を、山の中に並べたり組み替えたり、コマを打ったりするのは体力勝負。長く続けていくための判断だった。

菌床栽培は設備費用がかかるため、短いサイクルで生産量を増やすビジネスモデルが一般的と言われ、原木栽培よりも味や香りが劣ると捉えられることもある。しかし田村さんは、椎茸の出来栄えは栽培方法ではなく作り方だと信じた。初めは思うような椎茸ができなかったが、おいしいものを作りたいという一心で研究を重ね、肉厚で大きく旨みのある椎茸を編み出した。

福王しいたけのメインサイズは、直径10cm、厚み3cm。重さは100gほどあり、大きいものだと200gにもなる。網焼きやステーキで肉厚な食感とジューシーさを味わうのがお勧め。「椎茸のおいしさは、原木か菌床かではなく、作り方。椎茸は原木のほうがおいしいでしょ、という方にこそ食べてほしい」と川島さん。


天皇陛下献上品への選出や農林水産大臣賞を受賞するなど、高い技術力が評価され、椎茸の匠「茸匠(たけしょう)」と呼ばれるようになった田村さんは、80歳を超えてもなお現場に立つ。より良い椎茸をと研究を続ける一方で、体が思うようではないことから引退も考えていた。跡継ぎがいなければ、農園は閉めるしかない。そんなとき現れたのが川島さんだ。

農業で生きていく、強い想いで切り拓いてきた就農への道

川島さんは、茨城県小美玉市出身。農業の道を志したのは19歳のとき。自然や生き物、自然科学系が好きだったことから、自然の中で仕事をしたいと思い、筑波大学生命環境学群に進学。学業と並行して取り組んだ農業アルバイトやサークルで、つくば市や全国の農家さんを訪ねるうちに、農家の生き方に憧れを持つようになった。
以降、当事者意識を持って学びや現場経験を積んでいった川島さん。その中である疑問を抱き、その答えを探るべく、大学卒業後は金融機関に就職。北海道で農業融資の仕事をしながら農業経営を学んだ。
「農業をしたいと話すと『農業は儲からないぞ、やめとけ』と言われるんです。こんな素敵な仕事をしているのになぜ儲からないんだろう?と疑問を感じて、金融や経営を学ぼうと思ったんです」

自然の中で仕事をし、育てたものを食べ、人にもおいしいを届けられる。そんな生き方に魅力を感じたと川島さん。「学生時代のアルバイトでは、凍った畑のニンジン堀りや、真夏のハウスでメロンの片付けなど過酷なものもありました。それも楽しいと思えたので、自分は向いているのかなと思いました」


ゆくゆくは茨城に戻って農業をしたい。そう考えていた川島さんは、2年後、笠間市の地域おこし協力隊として茨城にUターン。

「『農業がしたい』という気持ちの根源は大学時代に生まれたつながりにあります。自分が生まれ育った場所ですし、大学でお世話になった方々と関わりながら農業がしたかったんです」

茨城に戻った当初は、知人の農家で修行し、新規就農を目指すプランだったが、新規就農者への補助金制度が変わってしまい一旦白紙に。茨城で別の仕事をしながら準備をしようか考えていたときに、笠間市地域おこし協力隊の募集を見つけた。地元・小美玉市の隣町なので土地勘があったことや、地域に入り、農家さんの手伝いや町おこしなど地域のためになる活動をすることで、就農への道筋も作り直せるのではないかと思ったことから、応募を決意。

もともとの募集枠は、農業関連施設を盛り上げる担当だった。しかし面接で、川島さんの農業への強い想いが伝わり、新たな枠として農業振興担当を設けてくれることになった。2019年7月、人をも動かす熱い想いを胸に、茨城で新たなスタートをきった。

茨城で出会った、地域を代表する感動の味

協力隊としてのミッションは、地域の農業を盛り上げること。農業公社HP内の生産者紹介ページ更新作業、都内や県内のマルシェで笠間産農産物のPR、インターネット販売サイトの立ち上げ支援、ネット勉強会の開催など、地域の人とともに活動を展開した。

協力隊は自分で考えて活動していくため、初めは何をしたらいいか分からなかったと振り返る。地元から近いとはいえ、地域の人とのつながりもなかった。そんな状況でも、常にアンテナを立て、自分の足を使い、地域の人と関係を築いていったそうだ。

田村さんとの出逢いも、協力隊の活動中でのことだった。就任してすぐの頃、前任の協力隊の紹介で田村きのこ園を訪れた。茨城にこんなおいしい椎茸があったんだと感動するも、後継者がいないと耳にした川島さん。「この椎茸がなくなってしまうかもしれない」とショックを受け、何とか残すことができないかと考え始めた。

先代の田村仁久郎さん。「春から秋までは毎日お客さんが来てくれるんだもん、やめられないよ」と笑う。「人と話すのが大好きで、僕みたいな人間でも『おいでおいで』とスッと受け入れてくれる方。そんな人柄にも魅かれるものがありました」と川島さん。


唯一無二の椎茸を未来に残すべく、ファンから作り手へ

その後も農園へ通ううちに「この椎茸を残したい」との想いが強くなっていった川島さん。協力隊就任から半年後の2019年12月、弟子入りを志願。田村さんは笑って迎え入れてくれたという。

協力隊の活動をしながら椎茸栽培を学び始めて一か月、いきなり試練が訪れる。田村さんがひと月入院することになったのだ。その時期は菌床づくり真っ只中。菌床栽培を取り入れている農家の多くは、仕込みから収穫を1年に何サイクルも行うそうだが、田村きのこ園では仕込みを年1回、1年半で1サイクルと、通常の倍以上の時間をかけて栽培している。そのため、収穫期も9月末から翌年5月までと限られており、今作業しなければ、今シーズンは椎茸が採れなくなってしまうことになる。川島さんは、毎日300個もの仕込みを託された。

ハウス内に並ぶ菌床。購入した菌床を使用する農家も多い中、田村きのこ園では自分たちで菌床づくりをしている。菌床づくりをする1~3月は、1年で一番忙しい時期。弟子入りが1年遅かったら、廃業していた可能性もあった。


「分からないことは電話で聞きながら、必死に取り組みました。この件で田村きのこ園をどうにかしなきゃという気持ちが強くなったし、危機を乗り越えたことで親方である田村さんからも認めてもらえるようになりました」

川島さんの中では、今後の選択肢がいくつかあった。田村きのこ園で椎茸栽培を続けていくか、新規就農者として椎茸を残していくか。そんな話を田村さんにすると「うちでやればいいべよ」との言葉をもらい、二代目として生きていく覚悟を決めた。

守りつつ、自分らしくチャレンジする。第三の目を新たな風に

川島さんは先代が築き上げてきたものを守るだけでなく、これまでの学びを活かしてチャレンジを続けている。HPやインターネット販売サイトの開設、SNSでの情報発信、干し椎茸パックのリニューアル、田村きのこ園オリジナルのきのこTシャツ制作&販売、経営改善など、先代がやりたかったけどできていなかったことも含め、右腕としてどんどん行動していった。

「新しいことにチャレンジするときは事前に親方に相談し、反応を見るようにしています。親方は『俺は分からないからやってみろ』と見守ってくれます」

また、川島さん個人でもSNSで情報発信をしたり、メディア取材を受けたりと、作り手の目線や想いを積極的に伝えている。その努力が功を奏し、新規ファンや飲食店との取引も増えたという。

直接水を入れて置いておくだけで出汁がとれる、干し椎茸パック。これまで簡易包装で提供していたものをリニューアル。贈答用として、生椎茸とセットにした商品も川島さんが考案。


田村さんはここ数年は引退を見据えて「今年で最後だからね」と言いながら椎茸を販売していたそう。しかし、後継者ができたことで、お客様から「これからも田村さんの椎茸が食べられる!これからもよろしくね!」との暖かな言葉もかけられたそうだ。そんなエピソードを語りながら、川島さんは「やりがいがありますよね」とはにかんだ。

「第三者だからこそ」の、ほどよい距離感。大事なのはリスペクト

自分らしくチャレンジをする川島さんと、ドンと構えて見守る田村さん。第三者継承というパートナーシップを振り返ってみて「他人かつ、年が離れているから尊重し合えたのかなと感じます。覚悟というよりは、リスペクトが必要だと思う」と川島さん。

「彼はここに来て2年になるけど、アラが出ないんだよ。せっかく継いでくれたんだから、花開くようにやっていきたいね」と笑う田村さん。65年の想いと技を、若き青年に託す。


「第三者継承は、農業をしたい人と後継者を探している人のマッチングが一番難しい。人と人の相性もあるので、なるべく多くの人との接点があったほうがうまくいく確率が上がるのではないかと感じています。その点では、地域おこし協力隊はひとつの良い制度。自治体の仕事として地域の中に入り、お互いの人間性を知ることができる。そんなふうに、自然な形で接点を増やせる機会があるといいですよね。接点がないと、農家側も第三者にお願いするイメージが湧いてこないでしょうし、僕自身も協力隊ではない立場で弟子入りを志願していたら、すぐには受け入れてもらえなかったと思います」

地域に眠る魅力的な農業を未来につなぐ

2022年4月、川島さんは「右腕」から「二代目」となった。これまでを振り返ってみて、協力隊になり、本格的な実践者として第三者継承したことで、自分の中での農家像が大きく変わったと川島さん。

大学時代は、「日本の農政とは?」といったマクロな視点で農業を見ていた。しかし笠間市という地域に入り、農家さんひとりひとりの人柄や想い、今に至ったストーリーに触れたことで、解像度が大きくと上がったという。

「学生時代は、農家は減っていても農業生産高は変わっていないことから、大規模な経営が増え、どんどん効率化され、生産性が上がって良い傾向なのではないかと思っていました。でもミクロの視点で見たことで、それだけではないと気づいたんです。すごいものを作っているけど後継者がいなかった、経営的には問題ないのに場所が辺鄙なだけに継ぐ人が現れず廃業してしまった……そんな現実に触れ、地域にはまだまだ宝物や良い経営が眠っているかもしれないし、それらを活かすためには主体者として経営する人が必要だし、生き残るために経営を変えていく必要があると思うようになりました」

先代から二代目へ、100年後も在り続けるために

田村きのこ園オリジナルの菌床椎茸Tシャツ。裏面には田村さんから川島さんへの事業継承を表現した「田・村・川・島」が描かれている。


これからの展開として、しばらくは田村さんも現場に残り、二人三脚で唯一無二の椎茸を守っていく。川島さんも、ダイナミックに変えるというよりは、これまでやってきたことの延長線で展開していくと考えている。そのひとつとして、敷地内の空き長屋を活用し、農園で椎茸を楽しめるスペースを作ろうと計画中だとか。なるべく多くの人に椎茸を届けること、持続可能な経営にしていくこと、といった課題にも取り組んでいくという。

「大学や協力隊でいろんな方と関わらせていただけたのは財産。横のつながりも活かして展開し、『開かれた農家』でもありたいですね」

先代からバトンを受け取り、心新たにスタートをきった川島さん。しっかり同じものが作れるかというプレッシャーはあるというが、大学時代からずっと農業に携わってきた自分を信じて前に進む。田村きのこ園の椎茸を100年先へ残すために。

PROFILE

PEOPLE

田村きのこ園 二代目

1994年生まれ 茨城県小美玉市出身
筑波大学生命環境学群在学中、農業アルバイトやサークルで農業に携わる。出会った農家の生き方に憧れ、19歳で「農業で生きていく」ことを決意。大学卒業後は農業経済を学ぼうと、金融機関に就職。北海道で2年間、農業融資を担当したのち、笠間市地域おこし協力隊として茨城にUターン(2019年7月〜)。協力隊の活動の中で田村きのこ園を訪れ「この椎茸を残したい」との想いで弟子入り(2020年1月〜)。2022年4月に田村きのこ園を第三者継承。

田村きのこ園 https://tamurakinokoen.jp/

INTERVIEWER

赤津美咲

ライター/フィットネスインストラクター 1990年生まれ。茨城県日立市出身。海と沖縄と島旅が好き。東京の体育大を卒業後、地元のスポーツジムに就職。2015年よりフリーランスへ転身し、フィットネス関連の講座やイベントの講師、ライターとして活動。2020年に第一子を出産し、家庭と仕事の両立を模索中。人の想いやふるさとの物語を未来につなぐ「ひたちのまちあるき」「まちキレイ隊ビーチクリーン」主宰。

Photo:佐野匠(つくば市)