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梶間千萩さん

PEOPLE

株式会社カジマ 惣菜店店長・小売部部長

梶間千萩さん

カジマのごはんで食卓を温かく、それが大洗への恩返し

「田舎には絶対戻らない」そう決めて東京に出た一人の女性が今、大洗に戻り街の一角を明るく照らしている。カニなどの水産加工を扱う「株式会社カジマ」の梶間千萩さんだ。大洗には戻らないはずだったが、あることをきっかけに家業に入り、持ち前の感性と努力で会社をアップデートし続けている。話を聞くとそこには、母や大洗の街への思いがあった。

レジャー、伝統、そして海産物の街

県内屈指のレジャーの街、大洗。海水浴やサーフィンで賑わい、水族館をはじめ観光スポットも数多い。潮風が吹き抜ける街には歴史の深い神社仏閣が点在するほか、漁師たちが唄い継いできた「磯節」などの伝統もある。そして、街の心臓部となるのが大洗港。首都圏と北海道を結ぶフェリーが行き来し、太平洋沖や鹿島灘など水産資源に恵まれた沿岸漁業の基地でもある。そんな大洗には、水産加工場や海産物の店が立ち並ぶ。今回の舞台はその水産加工場の一つだ。

「カジマのカニじゃないと」

漁港から徒歩で約10分、大洗町役場の程近くに株式会社カジマ(以下「カジマ」という。)がある。80年以上前に創業し、カニの加工を主な事業としている。カジマの水産加工場には各産地からカニが集まり、ニーズに合わせて加工されたカニが全国へと出荷されていく。信念は、カニのうまみを逃さないための手間を惜しまないこと。大洗はカニの産地ではないにもかかわらず、多くの商社がカジマに依頼するあたりから、その質の高さが伺える。

千萩さんが小さい頃から出入りしていた加工場で、その頃からの職人たちが今も丁寧に加工を行っている。塩抜きや殻むきなど、どの工程も「カジマのカニ」として気を抜けない。


今回ご紹介する梶間千萩(かじま・ちあき)さんは、カジマの創業者である梶間ハナさんのひ孫に当たる。学校帰りにランドセルのまま工場に立ち寄り「おばあちゃん、カニちょうだい」とおやつにカニを食べるのが日常だったのだそう。幼い頃からカジマのこだわりをずっと間近で見てきた。

「昔から『本当にいいものを作りたい』と職人気質の方たちが加工をしています。おかげで市場に出ると『やっぱりカジマのカニじゃないと』と言ってもらえる。それはやっぱり加工現場がこだわってくれているからですよね」

カジマでは水産加工のほか、冷凍食品製造や飲食店、そして惣菜店も経営している。おいしさを追及する姿勢はどの事業でも一貫していて、近年好業績が続いているという。

「お母さんを助けたい」という思い

迷った時、二人で話し合うといつも答えが一致する。「きっと母ならこうするだろうな」という思いで進んでいけるのだそう。


その好業績のキーとなるのが、2013年に入社して7年目となる千萩さんだ。カジマ営業企画部の部長を経て、現在、惣菜店の店長と小売部の部長を兼任している。社長は母の梶間桂子(かじま・けいこ)さん。千萩さんは、夜中に机に向かう桂子さんの姿を覚えているという。

「『きっと会社が大変なんだろうな』と子どもながらに思って、お風呂を掃除したり洗濯物を取り込んだり、できるお手伝いをしてきました。今思うと、昔からある会社を潰さず続けることはすごい覚悟が必要だったと思います。『お母さんを助けたい』という思いは、その頃からずっと続いています」

覚悟を持って働く桂子さんを尊敬する千萩さんだが、家業に入る気は全くなかった。テレビドラマをきっかけに都会暮らしに強く憧れ、東京の大学に進学。おしゃれなOLを夢見ていた千萩さんに、桂子さんは「好きなことをやりなさい」と言い続けてくれた。

戻る気はなくても、千萩さんには商人の気質が染みこんでいた。アルバイト先のパン屋ではお年寄り向けの販売法を提案した。マーケティングの授業では「カジマもこうしたら売れるんじゃないか」と常に考えていたそう。就職活動を始めると、自然と食品関係に志望が絞られていった。

そんな就職活動の最中、大学4年生を目前にした2011年3月に東日本大震災が起きた。大洗町には最大波4.9mの津波が押し寄せ、カジマの工場や倉庫は浸水。家族や従業員は幸い無事だった。千萩さんが1週間後に何とか大洗に帰ると、今まで見たことのない桂子さんの姿があったという。

震災直後の様子。カジマの倉庫や加工場は全て津波で浸水し、重要な機械や施設が使えなくなった。カジマの前に流れついた残骸や漂着物を近隣の方と一緒に片付けていくなか、桂子さんは地域と繋がる惣菜店を思いついた。


「いつも前向きだった母が、床に顔を伏せて起き上がれずにいたのを見ました。それを見て『なんとかしなきゃ』という思いが出てきて就活どころではなくなりました。『茨城にいたい。カジマに帰ってカジマを助けたい』と思うようになっていたんです」

それから1カ月。千萩さんは、大洗に戻り惣菜店の店頭に立つなど手伝いを続けた。次第に「カジマで働きたい」という決意が固まり、思い切って桂子さんに打ち明けたものの、「好きなことをやっていい」という桂子さんの気持ちは変わらず、反対の姿勢を崩さなかった。千萩さんは何度も何度も、時にはお風呂場にまで追いかけて行って、桂子さんと話し合ったのだという。

「大学4年間で学んだこととか、入社してからどうしたいかを書いて提出しなさい」
ある日、桂子さんから課題が出た。千萩さんは今までに書いたどのエントリーシートよりも熱い想いを込め、レポート用紙5枚を書き上げた。それが桂子さんの心を溶かしたのだろう、そこからはすんなりと千萩さんの入社が決まったそうだ。

消えかけた情熱の灯

ようやく手にした家業への内定だったが、その情熱の灯が揺らぐことがあった。周囲から冷ややかな反応があったのだ。

「大学ではサラリーマンの家庭で育った友達が多くて『実家を継ぐ』とか『実家で働く』って感覚を理解してもらえなくて。『いいよね、就活しなくても家に帰れば仕事があるんだから』って言われたこともあります。みんな就職活動が厳しい状態の中、言われて当然かと思いながらも『自分で選んだ道が間違いなのかな』『おかしいのかな』って悩んだ時期がありました」

さらに、入社してからも傷つくことがあった。

「『外で就職してから戻ってきたの?』って聞かれて『卒業してすぐ入りました』って答えると『それはちょっと甘えてるよね』って言われることが結構あって。『また言われた』と思ってもその場では笑ってごまかして、会社に帰っても誰にも相談できずに家で一人落ち込んでいました」

仕事の合間に立ち寄るお気に入りの場所。波の音を聞いていると、少しの時間でも無心になれてリフレッシュできる。


それを知ってか知らずか、桂子さんは千萩さんを試練の場に送った。若手経営者向けの勉強会だ。千萩さんは入社してまもなくで、社会人経験が全くなかった。「御社・弊社」の使い分けもわからずに自己紹介から失敗。講師から「5年後のカジマは?」などと質問されても答えられない。毎回大恥をかいて、帰りの車中で涙を流した。泣き顔を隠して桂子さんにその報告をしたときのことが忘れられないそう。

「『良かったじゃん』って。『今から完璧に出来る人なんていない。悔しかったら次はちゃんとできればいいんだよ』って言われて。それを聞いて『次は絶対頑張ろう』と思ったら、つい泣いちゃいました。悔しすぎて『もうこんなふうに泣きたくない』と思ったし、『勉強しなきゃ』『実家に入ったからって甘えちゃいけない』って気がついた時期でもありました」

今の千萩さんの強くしなやかな姿勢は、きっとこの母の言葉が礎となったのだろう。

無我夢中で販路拡大

千萩さんは、自らにエンジンをかけた。その頃のカジマは、津波被害が大きかった倉庫を改装して惣菜店を開き、地域に向けた小売業に挑戦していたときだった。屋台形式でのイベント出店も始め、オリジナル商品「ずわいがにたっぷりコロッケ」も開発した。今でこそ月に数万個と生産する主力商品だが、当時はまだ1日10個作る程度。千萩さんは「おいしいものを作ることに関してはみんな一生懸命だけど、作るだけではだめだ。売り先を自分でどんどん広げていかないと」と奮起した。

7年前に生まれた看板商品「ずわいがにたっぷりコロッケ」。カニの量やじゃがいもの滑らかさ、甘さなど、千萩さんが桂子さんやスタッフと一緒にレシピを改良し、おいしさを追及し続けてきた。


千萩さんが目指したのは、イベント出店での販路拡大だった。日々の小さな出会いを大切にすることで出店のチャンスに繋げていった。規模も客層もさまざまなイベントへの出店依頼をなるべく断らずに次々と出店先を決定。会社には事後報告だったが、「まずはやってみよう」という思いで進めていった。桂子さんと信念が一致していたからこそのスピード感だったのだろう。

イベント出店時にも多くのファンが店頭に訪れる。「ずわいがにたっぷりコロッケ」だけでなく、「カニミソクリームコロッケ」「チーズのカニコロ」なども人気。


今では「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」など大きなイベントにも出店し、一つのイベントで名物コロッケが数千個売れることもあるそう。さらにはカジマの主力である水産加工部の売り上げを、小売部の売り上げが超えるまでに至った。

千萩さんには入社からの信念がある。「多くの人との出会いを大切にする。それが自分自身と、会社の成長に繋がる」。イベント出店による販路拡大の成功で、この言葉を体現した。

カジマのごはんで食卓をあたたかく

目指しているのは「あたたかくて楽しくて、おいしいお店」。毎日来てくれる常連さんも少なくない。


その努力が認められてか、千萩さんは2019年11月に惣菜店の店長を任された。ここはカジマの復興のシンボルとも言えるだろう。

「震災直後、従業員やお客さんが自分の家の片付けを後回しにしてまでカジマの片付けを手伝ってくれたそうです。そのおかげで今のカジマがあるというのを絶対に忘れてはいけない。その『感謝』のためにも、お客さん一人一人をすごく大事にしています」

千萩さんの毎日は忙しいが、その一つ一つに優しさが込められている。常連の方の好みの惣菜を意識したり、仕事の合間に立ち寄った人に「午後のお仕事頑張ってね」と伝えたり。より良いお店にするため、1日1カ所ずつ改善しているのだとか。

「入社して7年経ちますが、今が一番楽しいです。ちょっと前まで『休みが欲しい』とか思ってましたが、今は忙しい方が楽しい。カジマのごはんで食卓をあたたかくしたいんです」

おいしい食べもので街へ恩返し。その思いにあふれた千萩さんの笑顔を見ていると、入社の頃の悩みはもう吹き飛んでいるように見える。

新型コロナウイルスの影響を越えて成長したい

千萩さんの努力もあり復興の軌道に乗ったカジマだが、新型コロナウイルス感染症の影響で再び大きな局面を迎えた。繁忙期のイベント出店ができず、飲食店も休業。会社全体の売り上げが大きく下がった。千萩さんも一時は落ち込んだが、母譲りの強さで今は前を向いている。

「こんなときだからこそ店頭に出す種類を増やして、彩りや盛り付けに気をつけて丁寧に作っています。それが当たり前のようにできれば、世の中が落ち着いたときにカジマとしての幅が広がっていると思うんです」

小売部の部長として、通販も強化した。揚げ調理済の冷凍コロッケの開発に成功し、冷凍庫に眠る在庫からカニ丼セットも思いついた。どちらも通販で好評だ。その裏にはこれまでカジマに訪れたことのあるファンへの想いがある。

主力である冷凍食品は日常使いにはネックだと思っていたという千萩さん。しかし感染症拡大防止の自粛のなか、それが強みに変わった。


「注文の備考欄に『なかなか大洗に行けないけど自宅でカジマ飯、楽しみます』とか書いてくれる方がたくさんいて、そういうのが嬉しくて『落ち込んでる場合じゃないな』って励みになりました。『みなさんが戻ってきたらどう恩返しをしよう』と考えるとワクワクして、必死に準備をしているところです」

震災から立ち上がるために尽力してくれた皆さんへの「感謝」、そして通販や店舗で買ってくれる皆さんへの「感謝」。カジマの長い歴史の中での数々の困難を乗り越えてきた鍵は、この「感謝」であったに違いない。

たくさんの出会いから生まれた思い

千萩さんに、茨城にUターンし、就職した感想を改めて聞いた。

「最初は間違いだったと悩みました。でも戻ってきたことでたくさんの頑張っている方たちと出会えて、そして今があるので、自分の選んだ道は間違いじゃなかったって思います」

一度は決別しようとした大洗への思いは。

「地元の皆さんがとても温かくて居心地が良くて。今は大洗が大好きで、大洗から出たくないくらいです。あの頃の自分は、なにを意地張っていたんだろうと思います」

入社して以来7年、千萩さんの中には、必死で突き進む中で抱いてきたカジマへの想いがある。その想いを少しでも次に繋げられるよう、姉弟でも定期的に集まり、日々の反省や今後のカジマについて話し合っているそうだ。

さらには、大洗の町全体がもっと魅力的になるよう、観光協会が立ち上げた若手による街おこしチームにも参加。地元の仲間たちとともに、「自慢したい大洗町」の実現を目指した意見交換も行っている。

一度は大洗を離れ、そして悩みながらも行動し続けてきた千萩さんならきっと、カジマや大洗町のさらなる一歩を進めていけるのではないだろうか。

PROFILE

PEOPLE

株式会社カジマ 小売部部長・惣菜店「かじま」店長。デリカアドバイザー。

1990年に大洗町に生まれ、創業者のひ孫にあたる。2013年に武蔵大学経営学部を卒業し、新卒で株式会社カジマに入社。カニ加工の現場を経てイベント出店の企画・営業をするようになり、国営ひたち海浜公園で開催される「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」など大小様々なイベントに1年を通して出店するようになるなど販路拡大を大幅に進めた。1度のイベントで数千個のコロッケが出ることも。また、主力商品の「ずわいがにたっぷりコロッケ」を改良したほか、「カニミソクリームコロッケ」「チーズのカニコロ」など開発し、次々と人気商品となる。趣味はおいしいもの巡り。

株式会社カジマ https://www.kajima-crab.com/

INTERVIEWER

栗林弥生

1982年水戸市生まれ。報道カメラマンの父に憧れテレビ業界を目指し、東京の番組制作会社でドキュメンタリーなどの番組を制作した。2014年に結婚を機に水戸に戻り、子どもとの暮らしを楽しみながら取材活動をする。記念日に写真を撮るように、人生の節目で文字を残すような文化ができたらと、個人や家庭を取材する活動を始めている。しみじみとした話を聞くこと、書くことがとにかく好き。

Photo:佐野匠(下妻市在住)(一部提供写真を除く)