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茨城のヒト・コト・バ PEOPLE, THINGS, SPOTS OF IBARAKI
株式会社常陸風月堂 代表取締役
藤田浩一さん
たくさんの出会いから見出した、家業の枠を超えた仕事への想い
地域で愛される老舗和菓子店・常陸風月堂(以下、風月堂 )。店主の藤田浩一(ふじた・こういち)さんは、三代目として伝統的な和菓子や長く受け継いできた風月堂伝統の味を守りながらも、ワインとペアリングした新感覚の和菓子を提案するなど、業界の常識に囚われない発想で周囲を驚かせ続ける和菓子職人だ。しかし、これまでは、家業を継ぐことへのプレッシャーや、挑戦の方向性に迷うなど、苦労があったと藤田さんは語る。そのストーリーの中には、新しい一歩を踏み出すためのヒントがあった。
「家業」を継ぐことの苦難
「常陸風月堂」は地元の人に親しまれる1948年創業の和菓子店。近年ではコーヒーやワインと組み合わせて食べる和菓子や、1万円超の高級羊羹「万羊羹」を 発売するなど、伝統の継承に留まらない和菓子づくりでも注目を集めている。
店舗から出てくるのは、和菓子でいっぱいに膨らんだ紙袋を大事そうに抱えるお客様。この店が地域からどれだけ愛されている存在かが伺える。
「目標は、みんなが笑顔になれる『革新』です。自分で行動した先の結果に失敗はないと信じて、何事も臆せずやってみようと思っています」
そう語る藤田さんは風月堂の代表であり、日々研鑽を積む現役の和菓子職人。3代目として後を継ぐことを決意した藤田さんが、大胆にも見える挑戦と革新を掲げるまでの間、立ち止まりつつも、何度もチャレンジを繰り返し続けていた 。
藤田さんは、風月堂を営む藤田家の長男。一度は別の道を考えたこともあったが、最終的に選んだのは、父と同じ和菓子職人の道。店を継いでほしいと言われたことはない。ただ、いつも楽しそうに店に立ってきた父の姿が、「風月堂の味を守らなければ」と藤田さんに決意させたのだという。
高校卒業後は上京し製菓の専門学校で学び、卒業後は神奈川県にある和菓子店での住み込み修行を経て、2009年に実家の風月堂に戻ってきた。
実家に戻った藤田さんは、父から「風月堂の味」を学びながら働く日々の中、「自分の和菓子」を認めてもらいたくなったのだそう。
「仕事にも慣れてきたころ、和菓子に自分の『色』を出してみたくなったんです。当時僕はあくまで『跡継ぎ息子』としてお客様から見られていたので、きちんと1人の職人としてお客様に認めてもらいたい気持ちもありましたね」
しかし、藤田さんが考案した和菓子は、その気持ちに反して地域の人の手にとられることはなかったらしい。
「今になって思うと、『新しいものをつくる』ことだけが目的になってしまい、誰かに求められるものを作れてはいなかったんですよね。そばで見ている父にも『お前に店を譲ったら風月堂はつぶれてしまう』と言われるような有り様でした」
お客様からも父からも認めてもらえず、焦りばかりが募る。 今でこそ独りよがりなものづくりをしてしまった、と冷静に分析できることでも、当時の若い藤田さんには正解がわからなかった。ついには、仕事場にこもりきりで、どう挑戦したら良いかさえ分からなくなってしまったそうだ。
「どん底でしたね」
藤田さんは当時を振り返る。
しかし風向きが変わった。挑戦のヒントが、家や業界の「外」にあると気づいたことがきっかけだった。
自分の中にない答えは、行動することで得られる
挑戦の方向性を定める最初のきっかけは、知人の勧めで経営セミナーに参加したこと。藤田さんは、そのときの出来事を、「和菓子職人になってから、はじめて自分の考えを肯定してもらえた」と振り返る。
業界の流れや生産性に反しても風月堂が創業からこだわってきた「手作りでしか再現できない工程と配合の和菓子」造りを貫きたいこと。和菓子を普遍的なものとするためカフェのメニューにしたいこと。日頃温めていたアイデアを懸命に話すと、セミナー参加者からは好意的な意見や反応を得られたのだ。
藤田さんの身近には、同じ境遇の若手和菓子職人はおらず、地元の知り合いの多くは会社員で、事業や商品開発に関して相談する相手がいなかった。ひとりで悩み続けていた藤田さんにとって、ここでの出会いはきっと大きな救いだっただろう。
「目の前で扉が開いた気がしました。答えは外にある。知りたいことや意見が欲しいのなら誰かに聞いても良い。遠くにいるなら自分から会いに行ったっていい。そんなふうに思えるようになりました」
老舗を継ぐというプレッシャーはもちろん、和菓子のアイデアや経営について、新しい技法や素材の知識、継承すべき伝統など、心を配るべきことは果てしない。自分一人で背負うには重すぎるが、知恵やアドバイスで助けを借りることはできる。
その日「自分は今日から生まれ変わる」と一緒にいた友人に宣言したという藤田さん。文字通り、現在の「行動派」の藤田さんに生まれ変わった。
当時を振り返り、藤田さんはこう語る。
「どこかで自分は『家業しか知らない』という引け目を感じていたのかもしれません。でも、もし足りないものがあるのだとしたら、それを埋めるのは自分の行動しかない。そう思うようになりました」
それからというもの、藤田さんは時間をつくっては人に会いに全国を飛び回るようになる。希少な和菓子のハサミ職人がいると聞けば貴重な技術を見に行き、アルコールとあんこの相性を探るためバーテンダーの意見を求めて飛行機で飛んだ。
さらに、茨城県内で開催された「家業イノベーション・アイデアソン※」に参加。業界の垣根を超えた仲間とともに、干し芋を使った和菓子の開発を行うなど精力的な活動を続けていった。
※家業イノベーション・アイデアソン:家業の後継者たちが抱える課題に対し業界の垣根を超えた経営者や学生がそれぞれのアイデアを持ち寄り、解決策を得るというプログラム。藤田さんは2020年に参加した。
「家業だから」以外の働く理由とは
次の転機となったのが、「茨城県北ビジネススクール」。
藤田さんはここで「家を継ぐ」という枠を脱して、この先目指したい世界や自分の想いというビジョンと向き合った。
茨城県北ビジネススクールは、茨城県北地域から社会課題解決につながる事業を生み出し、その事業の担い手となる人材を育成することを目的としたプログラム。2021年にスクールに参加した藤田さんは、講師から「やりたいこと」と問われ、意気揚々と「和菓子の伝統を未来へ残したい」と答えたそうだ。
それは、現役和菓子職人の心からの想いだ。しかし、それを聞いた講師に「そうじゃない」と一蹴されてしまったのだという。
「待っていましたとばかりに口にした答えでしたが『家業の枠をとり払って、あなた自身が本当にやりたいことが知りたい』と言われました。そう問われて気づいたんですよね。僕自身、何をするにも家業ありきで考えるのが当たり前になっていて、自分自身のやりたいことが全く無かったんです」
今度は「自分はなぜ仕事をしているのか」という堅い扉が目の前に現れたのだという。
自分の中に「家業だから」という以外の答えは見つからない。そこからの3ヶ月間は、つらい自己内省の日々だったと藤田さんは苦々しい顔をする。思い返せば、実家は地元で老舗と一目置かれる和菓子屋。地域では誰からともなく「跡継ぎ息子」と呼ばれていた。
「子どもながらに、自分の行動ひとつで店の看板を汚してしまうかもしれないと思うと、悪さはできなかったですね」
そんな幼少期の記憶を、藤田さんはずっと覚えている。それほどに、藤田さんにとっての「家業」とは重く大きなものだった。
原動力は、「誰かが喜んでくれること」
悩み抜いた藤田さんだったが、次の扉を開ける鍵は、子どもの頃の体験の中に見出すことができた。
藤田さんには、今でも鮮明に思い出す幼い日の1日がある。それは3歳のころ、母と祖母とともに神社へお参りに行った日の記憶だ。
その日姉たちは留守番をしており、末っ子の藤田さんは母を独り占めできることが嬉しくてたまらなかった。参道に並ぶ出店でおやつやおもちゃを買ってもらい、存分に大人に甘えた幸せな1日だったが、なにより一番嬉しかったのは、自分の行動で大人たちが笑顔になっていたことだ。
「小さな子どもの言動は、何がなくともかわいく思えるもの。それは僕の周りの大人たちも同じで、何をしてもニコニコと喜んでくれたんです。それが僕には本当に嬉しくて、その日のことは、大人たちの笑顔も、買ってもらった甘栗の美味しさも、出店のお兄さんとの会話もすべて覚えています。思えばその時から何十年も変わらず、自分は周りの誰かの笑顔をみるのが好きなんですよね。自分の行動で誰かが喜んでくれること。それこそがやりたいことであり、原動力なんです」
見出した「みんなが幸せになれる和菓子」のかたち
この気づきから、藤田さんには自覚したことがある。
自分は目の前の人を喜ばせたいという一心で和菓子をつくり続けている。一緒に働く従業員を笑顔にしたいから経営者として利益を出したい。取引先や、業界全体の幸せを願うから適正な価格で和菓子を売りたい。
その気づきに導かれるように、藤田さんが県北ビジネススクールでの集大成として開発したのが、栗を使った羊羹だ。大粒の実が特徴の高級栗「飯沼栗」を贅沢に使っており、「万羊羹」と名付けられた。
完成した万羊羹は、和菓子の中では異例の1万円を超える高価格商品だ。大粒の飯沼栗をはじめ良質な材料を使用し、手作業でつくられる風月堂の羊羹は、適正な値付けをしようと思うとこれ以上価格を下げることは難しい。
しかし値付けには、関わってくれた人たちが背中を押してくれたという。
「関わってくれた人たち」は、スクールの関係者だけでなく、全国にいる同業・他業種を問わない人たち。藤田さんが「行動」を起こしたことで出会った仲間たちだ。とくに、イベントで出会い万羊羹のパッケージデザインを担当したデザイナーは、万羊羹の価格に恥じない説得力あるデザインを提案し、藤田さんの気持ちを後押しした。
たくさんの人の想いのつまった万羊羹は、2022年に世界的に優れたパッケージデザインを表彰する国際コンペティション「ペントアワード」でフード・グルメ部門銀賞を受賞。「エントリーを決めたのは、プロジェクトに関わってくれた人たちに少しでも報いたいという気持ちから」だそう。そう語る藤田さんの言葉からは、人柄が滲み出るようだ。
その後、万羊羹は日本文化の総合博覧会Japan Expo出展のために実施したクラウドファンディングにも成功。こだわりの素材と重厚なパッケージ、キャッチーなコピーも手伝って次々とメディアの話題に登り、名実ともに風月堂と藤田さんを代表する和菓子のひとつとなった。
そんな喜びや成功の中にあっても藤田さんは冷静。しかし少しだけほっとした表情で言う。
「これで『みんなが幸せになれる値段』をやっと実現できました」
原材料の仕入れ価格や人件費は上がり続けているにもかかわらず、和菓子の世界は価格据え置きの状況が長く続いているという。業界の一端を担う人としても、関わる人に十分な利益を還元できないことがずっと気がかりだった。
万羊羹によって少し「みんなの幸せ」に向かって踏み出すことができたと、藤田さんはその一歩を噛みしめる。
「やってみよう」精神が次の展開を作る
藤田さんにとって無意識に心の重石となっていた家業の「和菓子」は、いつの間にか未来を実現するための「ツール」となっていた。
ようやく子どものころからのプレッシャーから解放された気がすると語る藤田さん。今では失敗できないという恐れは消え去り「考え込むより、まずはやってみようと思えるようになった」と軽やかに笑う。
今までの実践から得た気づきをこう語る。
「やってみて、これは違うなと思ったら『違ったことに気づける行動を起こせた』というマインドになりました。100回トライして1回成功するとしたら、99回失敗すれば成功するということ。そう考えると、何事も失敗はないと今では考えています」
そんな藤田さんに、経営者として、そして和菓子職人としてありたい姿を聞いてみた。
「うちは『変なお菓子屋』でいいんです」
伝統や慣例を貴ぶ業界の中で、そうでないやり方もあることを周りに見てもらいたい。誰かが挑戦することで、業界全体に「伝承」だけにとどまらない次の変化が生まれてゆくのなら、変なお菓子屋と思われるのも悪くない、ということだ。
自らが辿ってきた挑戦や仲間との出会いの経験から、若い世代たちにも期待を抱いている。
「自分より若い世代の和菓子職人たちに『チャレンジしていいんだ』と少しでも思ってもらえたなら本望です。若手が行動を起こすことで、和菓子から生まれる幸せが業界全体に波及してゆくかもしれないですしね」
地方の小さな店舗から、全国、世界に向けて挑戦し続ける藤田さんの言葉は力強い。地域で起業する人や活動を立ち上げる人たちに対してもその眼差しは変わらず、アドバイスを求めるとこう教えてくれた。
「まず行動してみることでこそ立てられる計画もある。行動する前に考えすぎると自ら自分の枠を決めてしまうことになりかねない。他の選択肢や協力者の存在に気づけなくなってしまうのはもったいないですよね。もちろん、自ら価値や話題を提供し続けないと周囲はなかなか振り向いてくれない。でも、一度想いや活動に共感してくれた人が根強く応援を続けてくれるのも、地域の特徴かもしれませんね」
無駄や回り道も、自分の幹を太くする
「世界中のカフェのメニューに、和菓子が当たり前のように綴られる日が来てほしい」
そんな夢を藤田さんは語ってくれた。また、和菓子のワークショップで海外の人を笑顔にすることも叶えたい目標のひとつ。将来は海外を転々としながらたくさんの人に出会う旅も思案中なのだそう。
そして、「人を笑顔にする」という自身の仕事の哲学に添う事ならば、和菓子にこだわらずとも何でもやってみたいと話す。
「自分もいつかは家業を卒業する時がやってくる。その時、太い幹のような魅力ある人間になっていたいと願っています。余白や無駄に見えることも、自分の幹を太くする大切な経験なんだと信じて回り道してゆきたいですね。だから、『まずは行動してみよう』という信条は、今後も変わりはありません」