茨城のヒト・コト・バ PEOPLE, THINGS, SPOTS OF IBARAKI

平賀優子さん

PEOPLE

ひたちおおたチーズ工房 工房長・製造技術者

平賀優子さん

チーズ作りも「ものづくり」、新天地での飽くなき挑戦

日本、そして茨城県内の「ナチュラルチーズ」業界が今、面白いことになっている。

大手乳業者を除くと、国内でナチュラルチーズを製造する工房は300以上。10年前のにも上り、中にはヨーロッパでの国際コンクールで上位入賞をするなど、一部の工房はすでに世界レベルに達している。そして国際競争力を強くするため、農林水産省が国内のナチュラルチーズ製造に支援を始めるなど、製造者にとって追い風が吹いている。

その流れに乗って、茨城県内で一つの挑戦が始まった。2020年5月に常陸太田市でオープンした「ひたちおおたチーズ工房」だ。平賀優子さんは、この工房長であり製造技術者として日々チーズと対話している。元々チーズの製造どころか食品製造者としての経験も無かったが、ここで必死で商品化したチーズは、在庫ゼロという状態が続いている。

話を伺っていくと、そのチーズの人気の背景には、チーズ作りの奥深さと、それを乗り越え続ける平賀さんの底力が見えてきた。

広い常陸太田市の南と北で

「ここ、ほんとにいいですよね!何でもおいしいし、便利だし、気候もちょうどいい!」

インタビューを始めて開口一番、平賀優子(ひらが・ゆうこ)さんは大きな声で常陸太田市のことをこう言った。

「おおらかな時代に育った」と自らを表現する平賀さん。お会いした瞬間から笑顔に溢れていた。


平賀さんは、大学生の娘2人と3人で常陸太田市の太田地区という市街地で暮らしている。娘たちの通学を考えて、駅の近くに住まいを決めたのだそう。

この辺りでは、戦国大名で知られる佐竹氏の城跡や、水戸光圀公が晩年を過ごした西山荘、江戸からの建物が残る鯨が丘商店街など、歴史を感じることができる。また、ぶどうや常陸秋そばなどの産地でもあり、広大な水田も広がり、食の面でも豊かな土地柄だ。

「今までお米ってあまり食べなかったんですけど、ほんとにお米がおいしくてびっくりしました。おかわりし過ぎて最後には娘がよそってくれなくなるんです」

母の顔でそう話す平賀さんは、住まいから車で30分ほど北上すると「チーズ職人」の顔になる。「ひたちおおたチーズ工房」がある里美地区に入るのだ。ここは雄大な阿武隈高地の最南端で、平賀さんが住む南部よりも少し涼しい。実はこの涼しさが、チーズのおいしさの鍵になるそう。

潮目が変わったチーズ業界

木々に見守られているように佇む、「ひたちおおたチーズ工房」。ここは2017年まで給食センターとして里美地区の子ども達のお腹を満たしていた。しかし児童が減ったことで廃止され、その活用法として白羽の矢が立ったのがチーズ製造だった。

わずか10年で給食センターの役目を終えることになってしまった建物。外側はそのままに、内部をチーズ工房のためにリノベーションした。


里美地区には酪農家が点在しているので、その生乳でジェラートやヨーグルトは作られていたものの、チーズは誰も挑戦していなかった。チーズは生乳に対して出来上がる量が少ないので、経営を安定させるまでが難しいのだ。輸入チーズの勢いが強いのは、ここに一因があるのだろう。

これに加え、TPPによる農林水産品の関税引き下げという世界の動きがあった。日本人の嗜好に合う数種類のチーズは関税を維持できたものの、多くの関税は段階的に引き下げられることとなり、輸入チーズが日本に入りやすくなってくる。そのため、国産チーズの国際競争力を一気に上げることが必要となり、農林水産省は150億円の予算を投じている。

「ひたちおおたチーズ工房」は、その助成を受けて設備を整えることができた。これは常陸太田市をあげたプロジェクトでもあり、常陸太田市の地域おこし協力隊としてチーズ作りを託されたのが平賀さんだった。平賀さんは、採用されたときの気持ちをこう話す。

「今の日本は何でもおいしいじゃないですか。飽和状態なくらい。その点、日本のナチュラルチーズは今まさに世界レベルに達し始めた、面白い業界だと思ったんです」

自力で越えなければいけない壁

今、「ひたちおおたチーズ工房」ではモッツァレラやカチョカヴァッロなど、フレッシュタイプを中心とした4種類のナチュラルチーズを販売している。道の駅ひたちおおたでの売れ行きが好調な他、水戸市内のいくつかのレストランにもチーズを卸している。また、新型コロナウイルスの影響で遅れたが工房での直売も始まった。工房の在庫は常にゼロで、オープン直後から順調な滑り出しだ。

現在販売しているモッツァレラ、フロマージュブラン、カチョカヴァッロ、ストリングの他に、セミハードタイプのチーズも販売に向けて製造中。


チーズ商品化のプロジェクトが立ち上がり、平賀さんが参加してから3年。この期間でここまでの状況に持ってくるのは決して簡単ではなかったはずだ。大変だったことを聞くと、平賀さんは迷わずモッツァレラ作りを挙げた。

「出来が安定しなくて、難しいチーズなんです。ナチュラルチーズ作りって割と工程が簡単で、材料もシンプル。だからこそすごく難しいんですね」

ナチュラルチーズの主原料は生乳と塩。そこに乳酸菌や酵素を入れて発酵を促して、レンネットで固め、水分を抜きながら完成させていく。特にモッツァレラは食べる人の好みもあり、美味しいと感じる食感となる「硬さ」の加減が難しい。この調整が、一番難しかったのだそう。

「酸度を下げながら成型出来る状態になるまで待つんですが、その間はそのまま放置するのか、時々混ぜるのか。それともホエイ(生乳を凝固した時に出る水分)を全部抜いて、時々裏返しながら待つか。モッツァレラを作っている人たちに聞いてみても、みんな環境もバラバラだし、使っている生乳の質にもよるみたいで、それぞれ独自の感覚で作っていて、やり方が違うんです」

成功したときも、うまくいかないときも、その理由が何なのかを常に考えている。


チーズ作りの基礎は、地域おこし協力隊の在任中に蔵王、那須、北海道の工房で学んだ。そしていざ自分で作り始めると、予想外のことが次々と起きる。しかし今の日本のチーズ業界には学校が無く、テキストなどもほとんど無い。そんな状況でチーズ工房それぞれが必死で模索してきたのだという。

そんな状況のなかで、平賀さんは粘った。休みの日にチーズを食べ歩き、おいしいチーズに出会ったらコンタクトを取り、工房と関係を築いてヒントを収集。その情報を自分のチーズ作りに活かしながら目の前の現象と向き合い、良いチーズを作ることを目指して考え続けた。

「うまくいかなかった理由とか、考えることがとにかく楽しいんです」

1年半をかけ、モッツァレラは何とか形にすることができた。その他のチーズも、それぞれ数多くの壁を乗り越えて販売開始に間に合わせた。

「ものづくり」の信念

実は平賀さん、ゼロから何かを生み出すことにおいてはプロフェッショナルだ。地域おこし協力隊に採用される前までは、デザインを軸に、映像やホームページ制作など、東京で第一線を走っていた。ものづくりの現場では、毎回色々なテーマについて深く知り、それを誰に届けるのか、どうやって伝えれば結果が出るのかを考え抜く。平賀さんはそれを一つ一つを乗り越えるうち、考え抜くことの強靭な筋力を鍛えたのだろう。

だからチーズ作りにおいても、「誰に何を届けるのか」の軸がぶれない。「おいしいチーズをお客さんに届ける」ということを大切なミッションと捉えて、チーズのラベルが曲がったまま売ることも良しとしない。

「結局チーズを作るにしても同じなんです。チーズも食べる人や買ってくれるお客さんがいての『ものづくり』ですから」

「チーズはお客さんにとって嗜好品」という平賀さん。だからこそ、ラベル1枚貼ることにも心を尽くす。


娘たちを巻き込んで

こんなに全力投球できるチーズ製造の世界。ここに至る転機は、当時高校生だった娘とテレビを観ていたときに訪れた。番組で地域おこし協力隊のことが紹介されていたのだ。

「それまで、地域おこし協力隊のことって知らなかったんです。職業柄、知らないことはすぐ検索するんですけど、たまたま常陸太田市が地域おこし協力隊でチーズの作り手を募集していたんですよ」

地域おこし協力隊というのは、地方自治体が委嘱し、地方に住みながら地域の活性化をする仕事。当時、平賀さんがいた業界はリーマンショックの余波で元気が無く、平賀さん自身も色々なことが重なり疲れ果てていた。ストレス発散がてらパン作りを10年続けていて「いつか食の仕事をしたい」という思いがあった平賀さんに、応募への迷いは無かった。

しかし、東京育ちの娘たちは突然の移住に戸惑う。平賀さんは「渋谷まで何分とか、そういうのを抜かせば便利だから!」と強引な論理で押し切り、書類選考と現地面接を経て、無事合格することができた。

「娘たちにはしばらく『チーズ』って呼ばれてました。『チーズ帰ってきた!』って。でも親子同士は遠慮が無いから、チーズを試食して味のことを正直に言ってくれてすごく助かるんですよ」

40代で思い切って転職し、生き生き働くお母さんの在り方は、娘たちの成長の糧となりそうだ。


住んでみたら、魅力ばかり

最初は「東京に戻りたい」と言っていた娘たちも、いつの間にか茨城県内の大学に進むことを自ら決めた。この土地の住み心地に、お墨付きをもらえたのかもしれない。平賀さんたちが住む太田地区からは、水戸も日立もひたちなかも車で30分ほどなので、便利に暮らせているのだとか。

常陸太田市の穏やかな気候も気に入ったそう。平賀さんが生まれたのは、かつては織物産業で栄えた群馬県桐生市。気候は厳しく、群馬県から遊びに来た平賀さんのお母さんも、「信じられないほど住みやすい」と驚いたとか。

さらに、茨城県の食べ物にも感動したという。以前、仕事で地方のことにも携わっていた平賀さんの目からすると、知名度が高い他県の農産物にも匹敵するという。

「茨城県の農産物って、どこにもに負けてないですよね。それに常陸牛もローズポークも、あと海産物もいい。この辺りのお魚屋さんは初鰹がすごくて、にんにくと一緒にお皿に鰹のお刺身がどっさりで出てきて、『これが初鰹か!』って驚きました。茨城県の魅力度が最下位っていうのが不思議ですよ」

独特のおいしさを求めて

茨城県や常陸太田市の魅力をたくさん挙げてくれた平賀さん。チーズにも、その土地の味は出るのだろうか。

「びっくりしたんですけど、里美の牛乳はコクがあるんです。だからチーズに加工しても、牛乳の味が残って濃厚。色々なチーズを食べ歩きましたが、これはうちの工房のいい特徴だと思っています」

コクに直結するのは、乳脂肪分の多さ。冒頭で里美地区の気候が「ひたちおおたチーズ工房」のチーズのおいしさの鍵と言ったのは、ここに関係する。牛は暑さに弱く、暑いときは草しか食べないので乳脂肪分が落ちるが、里美の高原は比較的涼しく、夏でも食欲が落ちにくい。チーズに良いとされる乳脂肪分が高い特別な種でなくとも、ホルスタイン種がコクのある牛乳を出してくれるのだ。

「里美ってすごく良いんです。お米や野菜が美味しく育つところだから、ここの水や土壌そのものが、人間にも牛にも良いのだと思います」

チーズ製造以外にも、工房長として各種業者の対応、受注や発注、パートの管理などをこなす。


世界レベルに達した国内のチーズ工房では、土地の特色をうまく織り込んだチーズが高く評価されているところも少なくない。平賀さんも世界を視野に入れているのだろうか。聞いてみると、「いつかは目指したい、とは思っています」と控えめな声で答えた。

では今のチーズをより良くしていくには、と聞くと、今度は力強く話してくれた。

「製造スタッフが工程表通りではなく自分の目でチーズの状態を感じ取れるように育てていきたいです。チーズ作りは、ゴールが無い。どこまで行ってもゴールが無いんです」

チーズ作りは温度やタイミングなどが勝負。五感を使ってベストな状態を探る。


平賀さんはこの春、地域おこし協力隊を卒業して「ひたちおおたチーズ工房」の工房長に就任した。

工房長として、またチーズ製造者としておいしいチーズを実直に追求していくことこそ、常陸太田市の魅力を支える「地域おこし」の本番のように思える。

私、作ることって何でも本当に楽しいんですよ。ここまで続けられてきたのは、作るのが楽しいから。それに尽きます」

元々縁が無かった茨城県で未経験の食の世界に飛び込み、日々挑戦を続ける平賀さんは、おおらかにこう笑った。

PROFILE

PEOPLE

群馬県桐生市生まれ。個性的なファッションや音楽のある青春を過ごし、自然とクリエイティブの仕事に興味を持つ。1992年に渡英し、美術大学進学のための学校を経てChelsea College of Artsに入学。ファインアートを専攻する。

在校時から、まだ草創期にあったホームページ制作の仕事に関わる。卒業後は帰国し、映像を主とした大手制作会社に所属。デザインの仕事を中心に、長野オリンピック公式映像などの映像制作も経験する。育児休暇を経て、同じ業界に復帰。

2017年に常陸太田市の地域おこし協力隊となり、那須、蔵王、北海道でチーズ製造の研修を受け、常陸太田市で製品開発を進める。2020年3月に地域おこし協力隊としての任期を終え、卒業。4月からは一般財団法人里美ふるさと振興公社の職員となり、その業務として「ひたちおおたチーズ工房」の工房長に就任した。

INTERVIEWER

栗林弥生

1982年水戸市生まれ。報道カメラマンの父に憧れテレビ業界を目指し、東京の番組制作会社でドキュメンタリーなどの番組を制作した。2014年に結婚を機に水戸に戻り、子どもとの暮らしを楽しみながら取材活動をする。記念日に写真を撮るように、人生の節目で文字を残すような文化ができたらと、個人や家庭を取材する活動を始めている。しみじみとした話を聞くこと、書くことがとにかく好き。

Photo:平塚みり(守谷市在住)(一部提供写真を除く)