茨城のヒト・コト・バ PEOPLE, THINGS, SPOTS OF IBARAKI

沼田智也さん

PEOPLE

陶芸家

沼田智也さん

そこにある土と対話しながら器をつくる“土を掘って練って成形して、薪を集めてきて窯に入れ、それが器になって人々の生活に入っていく。 できることならこれをやりたい”

東は海に、西は山に挟まれた高萩市。この地で陶芸を営む沼田智也さんのことを知ったのは、私が以前このウェブマガジンで取材・執筆した「ら麺はちに」に伺ったときのことでした。「はちに」の店内で陳列されている沼田さんの器に触れたとき、洗練され、都会的な雰囲気もありつつ、どこか懐かしい手触りを感じた記憶があります。店主の谷津喬史さんにお願いして電話で繋いでもらい、後日改めてアトリエに伺いました。 今回は前編として、現在のスタイルに行き着くまでの経緯を伺いました。

陶芸のリアルに度肝を抜かれた

日立の高校を出て、一年浪人したあと京都の美大に入りました。日本画を4年専攻するなかで、現代美術に興味が移り、メディアアート専攻に編入しなおしたんです。編入したのが就活のタイミングだったので、インターンとして東京のデザイン会社に入りました。そこでプロジェクトを担当しているうちに、そのまま来ちゃったら?って誘われ、卒業後に入社しました。

そこでは一年間、ディレクターとして仕事をしました。具体的には某メーカーがつくる飲料のボトルキャップにくっついているフィギュアのディレクションです。プレゼンから運営まで、なんでもやりました。権利関係を調べ、どのキャラクターがいいかとか。一年会社にいたうちの2ヶ月は中国の工場で色見本を片手に品質管理もやりましたね。

楽しい仕事だったけど、やっていくうちに疑問が湧いてきました。クライアントが決める納期があり、予算がある。どうしたってそれに合わせる仕事になっていくんです。それに、ボトルのキャップなんて大切にしてもらえるのはせいぜい一ヶ月ぐらい。そういうものをつくってていいのかな、と。

幼馴染がいるんですが、ずっと仲良くて、会社員時代に部屋をシェアして一緒に住んでいたんですね。そいつが大学在学中にサークルで陶芸やっているうちにハマっちゃって、いったんは地方で就職していたんですが、結局東京に戻ってきて師匠のところに弟子入りしていたんですね。

おもしろいっていうので、ある休みの日に工房へ遊びに行ったんです。そのとき、どういうわけか師匠と意気投合して。おまえ窯焚きやるけど遊び来るかって誘われたので、仕事帰りに見に行きました。そのとき、度肝抜かれたんですよ、すっごい面白いなぁと。スーツの袖をまくって、ワクワクしながら薪を運びました。

土を掘って練って成形して、薪を集めてきて窯に入れ、それが器になって人々の生活に入っていく。
できることならこれをやりたい。

そう思って、弟子入りしたんです。

地元・高萩で窯をひらく

師匠のもとにいたのは一年間。「土練り八年」とか言うひともいるんですが、師匠はどんどん教えてくれました。覚えたらさっさと独立して出ていってくれって。

独立するには自分の穴窯(あながま)が必要です。穴窯をつくるためには土地が要る。自分の実家は農業をやっているので土地はある。ということで、ここ(高萩)に帰ってきて自分で窯をつくって独立したんです。

その頃は、兄弟弟子とふたりがかり、一週間かけて穴窯で焚くスタイルで器をつくっていました。このやりかただと当然コストがかかる。茶碗ひとつ、仮に3000円で売れたとしても赤字なんです。要するに採算が合わなかった。ぼくもその頃はなかなか尖っていたので、自分がいかに納得するものを作れるかにこだわりがあって。NPOでフルタイムの仕事をしたり、結婚式のスナップカメラマンをやったりしながら稼いだお金で食いつなぎつつ、妥協せずに自分が作りたいものをつくりたかった。結局、30歳ぐらいまで陶芸だけでは食えなかったんです。

勤めていたのはまちづくり関係のNPOでした。若手の陶芸家を支援する理由もあって、ぼくのことを雇用してくれたんですね。若いうちは情熱も体力もあるから、9時から仕事して、定時で上がってそこから制作する。年に2回、それぞれ一週間ぐらい有給休暇をもらって窯を焚いていました。そんな生活をずっとやってたんです。でも30歳をすぎると職務があがってくるし、体力的にもきびしくなって。もう二重生活は難しい。陶芸を続けていくとしたら、陶芸一本に集中していかないと続けられなくなると思ったんです。

師匠に教えてもらった「手びねり」という手法はろくろを使わずに成形するので時間がかかります。穴窯は焚き上がるまでに一週間以上かかる。そもそも、師匠はお茶道の道具をつくっていたんですね。ちょっと前の世代にはそういうものが高額で取引されるマーケットがあったんですけど、だんだん先細っていって。ぼくみたいな無名の新人はそのマーケットにはなかなか出ていけない。

一方で普段使いの食器というジャンルだと価格は落ちますが、おもしろいマーケットが広がっていると思ったんです。そこで勝負してみようと。そのためには釉薬の知識とかろくろの技術を身につけないと話になりません。

どうしようかと思って調べているうち、愛知の瀬戸に窯業のための専門学校があるのを見つけたんですね。学費は無料だし、ぼくはそれまで正社員で働いていたので、そこなら職業訓練の一環で生活費まで出してくれる。学びながら収入を得られるなんて、夢のようでした。

求められていることを忠実に。

 

試験は2011年の3月初め。

一週間後に震災が起こったんですね。

手塩にかけて作った穴窯もぶっ壊れてしまいました。でも、いろいろ考えて、2011年の間は地元に戻らないで勉強しました。穴窯が壊れたことをポジティブにとらえれば、神様が「お前は地元に戻らないでもう一回勉強してこい」って言ってるのかなって。

一年間、いろいろなことを学びました。絵付けの授業があったんです。大学時代、日本画の勉強をしていたので平面に描くのは慣れているんですが、陶器に、となると全然違うんですよ。これは嫌だなぁーっと思っていました。

地元に帰ってきてすぐは手探りでした。とりあえず学校でやったことをおさらいしようといろいろ作ってみたんですね。つくったもののなかで、陶芸家の先輩とかギャラリーさんが絵付けの陶器に興味を持ってくれるようになったんです。「君がすべき仕事はこっちじゃないかな」と言われたら、そうですかねって。やっといまは絵付けの器メインでやっているんですけど。

最初は違和感しかなかったんですけど、評価され、求められるものを制作してゆくなかで、自分が作るべき器はこれだったんだなと、不思議と落ち着いてきたんですよね。

日本画を勉強して、メディアアートに編入し、ボトルキャップをつくり、陶芸と出会って、独立して挫折して、陶芸の基本を勉強し直して、いまここにいます。絵付けは日本画とつながっているし、何をするにもディレクターの視点を忘れていません。全部どこかでつながっている。でも、ビジョンがあったわけではありません。その都度いいと思ったように決断してきました。

「土には土のメッセージがある」

そもそも地元で陶器に使える土があるのかって聞かれます。もちろんあるのですが、大量に採れるわけではありません。

埋蔵量でいうと全国的に有名なのは瀬戸(愛知県)とか有田(佐賀県)です。このあたりだと益子(栃木県)とか県内では笠間。一概には言えませんが、石炭が出てくる地層はわりかし粘土が採れる。高萩は炭鉱で成長した町だから粘土が採れるんです。

とはいえ量が少ないのでなかなか難しい反面、場所によって個性があるのが醍醐味です。ただ、それでは仕事になりきらない部分がある。そこの難しさはどうしてもありますね。

その土地の土をよく調べてみれば、極論、どこでも採れるには採れるんですよ。でもどんな器をつくりたいかによって、使える土は決まってしまう。例えば土の粒子の問題もあるし、土によっては焼くときの適正な温度も変えないといけません。

誰が使っても間違いない、扱いやすい土はあります。それは「優れた土」といえるわけですけど、だめな土ならだめな土なりの表情がある。それと付き合うかどうかなんですね。

イメージした通りのかたちをつくるのが陶芸だという考えもあります。でも、先に“相手”としての土があって、それとどう付き合うか、そこにぼくの興味がある。

キャンバスに向かって絵を描くときには、相手がいないんですね。自分しかいないから孤独なんです。だからしんどいんですよ。描けねぇって思って苦しくなっちゃう。でも、陶芸ってのは、土が「おれさ!」って言ってる。こっちは「じゃあさ!」って(笑)。土には土のメッセージがある。ぼくは土と対話しながらつくっているんです。

いろんなものがあっていいんです。間違いない土を使ってコンスタントにつくっていく、それと同時に、地元の土を使って他にはない個性のあるものを展示会に出す。そのバランスでやっていけば、それは意味のある仕事だと思っています。

ここでつくったものは売っていかなければなりません。でも、売ることに関しては場所ありきで考えていないんです。適正に評価されるところにつくったものを運んでいくしかない。結果、すごくありがたいことに東京や大阪、京都のギャラリーで展示や販売をしています。評価してもらえる場所がそういう場所だったんですね。

茨城、とくに県北で評価されるのは難しいんですね。ぼくはいさぎよく諦めて、外でしっかり実績を出して評価されて、逆輸入されることでいつかここでも評価されるときが来るといいなぁとは思っています。そのときまではよそで評価を得て、仕事を続けていくしかないのかなと。

芸術祭(2016年に開催された「茨城県北芸術祭」)では、花道家の上野雄次さん(※1)が市内にある「穂積家住宅」(※2)でインスタレーション作品を展示していました。花を小学生に教えるワークショップがあったので、上野さんは高萩にしばらく滞在する予定でした。展示を手伝わせてもらったとき、「非公式に何かやりましょうよ」って上野さんに話を持ちかけたんです。ぼくは花器をもっていくから日替わりで花を活けてもらえませんかって。場所はニチハンメラを一緒にやってる谷津くんのお店「ら麺 はちに」で。上野さんは快く話にノッてくれたので、ゲリラ的に三日間ぐらいやりました。

この街でアートにお金を使ってもらうとしたらどんな感じなんだろう、自前でどこまでできるだろうって、ぼくらはずっと探っているんですよ。

「よそから来たお客さんを山に連れていって一緒に山菜をとる。海では銛で魚を突く。すると、みんな高萩ファンになって帰っていくんです」

やっぱり地元が大好きなんです。よそも住んだけど、ここはめっちゃ住みやすい。気候もいいし、物価も安い。海まで10分、山まで5分以内ですよ。ちょっと歩けばすぐそこに田んぼも畑もある。豊かですよね。

例えば、鎌倉に住むのは、ある意味間違いない。でも、どこ行くのも人がいっぱいで大変ですね。海水浴場は整備されているけど、こんなに人がいてどうやって泳げばいいの?って(笑)。

ここで活動していると全国からお客さんがいらっしゃいます。せっかく来てくれたんだからと思って、いろんな場所にお連れするんですよ。例えば山に連れていって一緒に山菜をとる。海では銛で魚を突く。すると、みんな高萩ファンになって帰っていくんです。

ここは満ち溢れるほどに自然は豊かだけど、鎌倉みたいにわかりやすくパッケージ化することは難しいわけです。でも、ここはパッケージ化されていないことが逆にラッキーなんですよ。どこにいったって貸切状態で遊べる。そういうことはだんだん希少価値になってきているし、楽しむ感性を持っている人が来てくれればちゃんと楽しめる場所なんです。

※1- 上野雄次:  1967年京都府生まれ。東京都在住。花道家、アーティスト。2005年より「はないけ」のライブ・パフォーマンスを開始。観客の前で生け花を競うライブパフォーマンス、「闘う花会」を主宰。芸術祭では、「いける」ことの本質を固持しながらも、3Dプリンタなどの最新技術を取り入れた新しい表現を試みる。(県北芸術祭ウェブサイトより抜粋)

※2 – 穂積家住宅:  江戸時代中期の豪農の住宅。1773年(安永2年)創建。(詳細は高萩市観光協会ウェブサイト

PROFILE

PEOPLE

陶芸家
HP / 沼田智也 陶藝 日々の泡
https://ibaragaki.exblog.jp/

INTERVIEWER

中岡祐介

株式会社三輪舎 代表取締役、編集者。1982年、茨城県ひたちなか市生まれ。県北との縁は、ほとんどの同級生が通う水戸を避けたかったために日立の高校に進学したことからはじまる。2014年、「暮らしのオルタナティブを発信する」をミッションに、出版社である株式会社三輪舎を設立。現在は横浜に拠点を置きつつ定期的に茨城に通っている。 三輪舎 3rinsha.co.jp

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