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茨城のヒト・コト・バ PEOPLE, THINGS, SPOTS OF IBARAKI
種継人の会
河合の箒
箒をつくるその手は伝統をつなぐ手になる / 河合の箒(後編)
ひとの手で作られるものに、私たちはなぜこれほどまでに強く心を惹かれるのでしょうか。河合の箒の取材を進めていくうちに引き継がれる伝統とは、箒の原料となる種や、職人の技だけではないということに気がつきました。そしてその伝統はあとを継ぐ人がいなければ簡単に途絶えてしまうものということも。長い間引き継がれてきたもの、そこには守ってきた人たちの存在がありました。
前編ではドキュメンタリー映画『河合の箒』を制作した在来作物の保存活動する種継人の会、そして箒作りを学ぶ「まいぶるーむ」について紹介しました。この後編では、河合の箒を今も作りつづける横山宮子さんにお話を伺ってきました。また、種継人の会の代表、布施大樹さんに横山夫妻と出会った当時のことについてもお話を伺いました。
箒作りはもうやめようかと思っていた

横山宮子さん。自宅の工房にて。
2004年11月25日発行の『フォンズ』(常陸太田市生涯学習センターで発行する情報誌)には、当時、横山有寿(ゆうじ)さん・宮子さんはホウキ草の栽培から箒作りまで行なっている数少ない一軒として紹介されています。取材をしたのは、常陸太田市の鯨ヶ丘でコミュニティカフェ『Cafe +1』を運営しているNPO結代表、塩原慶子さんでした。
取材から10年後の2014年のこと、塩原さんは種継人の会の布施さん、北山弘長さん、武藤卓さんと共に種継人の会の在来作物を探す活動の中で、横山夫妻のお宅を再び訪問します。そしてそのとき宮子さんから「お父さん(※夫の有寿さん)の具合が悪くなっちゃったから箒作りはやめようかな、と思って」と打ち明けられるのです。高齢であるご夫妻にとって、重労働が伴う畑の作業を続けるには、体力の限界がありました。
「箒作りはもうやめようかと思って、と伝えたら、布施さんが “そしたら畑手伝いますよ”と言ってくれて。そのあと“有寿さんができるうちに僕たちが箒作りを教わります”と言って、布施さんと北山さんが1週間に2回、夜の7時から12時過ぎまで教わりにきてたよ。そのころはまだお父さんは教えられたから」
それまでは有寿さんが主に箒作りをしていたのですが、体調が悪くなってしまったために、当時74歳だった宮子さん自身が箒作りをすることになります。子供の洋服を縫ったり、セーターを編んだり、もともとものづくりが好きだった宮子さん。箒作りは苦にならなかったと言います。
「布施さんたちが箒作りを始めたから私もやろうかなって。私にもできるか、できないか、なんて考えななかった。昔から身近にあったし、河合の箒もなくなっちゃうならやろうかなと思って始めたの。70歳過ぎたらどこも雇ってもらえないでしょ。失敗したのもたくさんあったよ。失敗したのは近所の人にあげたりしてた」
一生のうちで人に喜ばれて

宮子さんが作った箒。工房にて。(右)櫛形と呼ばれる箒。(真ん中)半手と呼ばれる柄の短い箒。
その後、宮子さんがつくった箒は反響を呼び始めます。いまでは珍しくなった箒づくりの職人として紹介されると、なんと全国から注文が入るようになりました。
「テレビで紹介されたときは札幌の奥さんから注文が入って。送ってあげると喜ばれてお礼の年賀ハガキがきたよ。“掃きやすい箒だよ”って。人に喜ばれるからうれしいね」
掃除といえば誰もが掃除機を使う時代で、いまや箒を使うひとも少なくなりました。たった一本つくるだけでも大変な作業なのに、全国から注文がきても大丈夫なのでしょうか。
「年だから足が痛いから手が痛いからとか言っていたら何もできなくなっちゃうからね。でも、箒を作るようになってからいいよ。気持ち的にね。結婚してから農家の仕事を嫌でもなんでもお父さんと姑さんについてやってきたでしょ。精一杯やってきたから。今はもう、自分のこと、箒作りだね。全国の人から注文がはいるからね。行商をやっていた時は高いから安くしろ、いらない、とか言われていたけど、今は欲しい人ばかり。道の駅で実演販売をやったときもすごい人だった。箒はすぐに売れちゃった。この間岡山に送ったら“掃きやすいから3本追加”て言われて、“すぐにはできないよ”と言ったら“いいですよ”って。一生のうちで人に喜ばれて、お金ももらえて、いいな、と思って」
どんなに待ってでも河合の箒を欲しいと思うひとがいる。あらゆるものが大量生産され、欲しいものはなんでもすぐに手に入る時代だからこそ、なのかもしれません。
「いろんな営みを引き継ぐことによって結果的に種が残る」

種継人の会代表、布施大樹さん
布施さんが種継人の会の活動で横山夫妻と知り合ったとき、横山さんたちはもう箒作りはやめる、というタイミングでした。箒作りよりも畑の作業が体力的に続けるのは難しいと。
「じゃあ、畑を手伝います、と言ったんです。そこからすべてが始まりました。その間にあとを継ぐ職人さんを探そう、とポスターを作りました。そのポスターを東京の大学に貼りに行ってもらったり。そうこうしてるうちに有寿さんが倒れてしまって。急遽、僕と北山さんが箒作りを教えてもらうことにしたんです」
布施さんのこの決断が、宮子さん自身の箒づくりを後押しすることになります。私が布施さんの話を聞いていていつも感じるのは、この原動力はどこにあるのかということでした。単純に、箒が好きだ、伝統が続いてほしいという思いだけではなさそうに思えたのです。そこで、箒作りの手前にある、種継人の会の活動についてうかがいました。

宮子さんの畑での刈り取り作業。まいぶるーむのメンバーもお手伝い。この日は東京の箒職人さんもきていました。

箒の材料となるホウキモロコシ
「活動のベースは先人へのリスペクトです。常陸太田で在来作物を作っている人たちに一時期訪ね歩いて話を伺っていたときがありました。みんないろんな思いを持って作ってきた人たちで、そこに惹かれました。横山さんもそうだし。人生とともに歩いてきているわけじゃないですか。種自体が。作ってきた人の人生と種が一緒に歩いてきている。多分いろんな人の人生の中でいろんな山あり谷あり、もうやめようかというときもあっただろうし、いろんなことがあっても作り続けてきたという、そのことにすごく興味が湧いたんですよね」
「作ってきた人の人生と種が一緒に歩いてきている」。とても比喩的な表現だけれど、それは真実だと感じ入りました。でも、布施さんはなぜそこまで種の保存のために頑張ることができるのでしょうか。
「種を残すのが目的ではないんです。いろんな営みを引き継ぐことによって結果的に種が残る。種を残すことだけが目的なら、別に箒作りをしなくていい。つくばの種を保存するジーンバンクに預けてしまえば種は保存できます。地元で生きていく自分たちは営みを引き継いでいって、すたれていってしまうものだけれども、じゃあ、現代社会の中で、その人個人と種の付き合いだったものを、地域のみんなと種の付き合いに変えていくことで、引き継いでいけるんじゃないかと。そうすることで、箒だったら『まいぶるーむ』のみなさんと一緒にやったり、あずきだったら栽培会をやって地域のお店に出すとか。そうすることによって、属人的だったものが地域に出ていく。そういう活動をすることによって種が残っていけばいいな、と」
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取材をはじめたころは、箒づくりの伝統を引き継いでいくことの重要性について、よく解っていませんでした。活動しているみなさんを取材をさせてもらううちに、引き継いでいくものは種や技だけではないということに気がつきました。布施さんが言う「営み」。その言葉を上手く言葉で表せませんが、暮らしそのもの、暮らしのリズム、暮らしの知恵、美しいとか尊さを感じる基礎となるもの、そういうものなのでしょうか。
「その営みを引き継ぐことが地元で生きてゆくための未来の選択肢を作る」。
布施さんの言葉に地域の可能性を大いに感じたのでした。